1938年にハワイ・ホノルルを訪れた米海軍空母(レンジャー、レキシントン、サラトガ)

(北村 淳:軍事社会学者)

 アメリカ海軍関係者で第2次世界大戦史に精通する人たちは、1941年12月8日(米国時間12月7日)の真珠湾攻撃を、アメリカ海軍としても多々教訓とすべき点が多い「戦術」的成功事例として高く評価している。ただし、日本軍首脳が策定した真珠湾攻撃における「戦略」目的は、全く達成することができなかったどころか、逆の結果を生ぜしめてしまったため完全なる失敗であった、と考えるのが通説となっている。

1940年が大統領選の年でなければ

 真珠湾攻撃に関して、ある戦略家は次のような興味深い指摘をしている。

 1940年が大統領選挙の年でなかったならば、日米戦は避けられたかもしれない、というものだ(当時の大統領、フランクリン・D・ルーズベルトは2期目であり、1940年は1941年1月後半からの3期目再選へ向けての選挙戦の年であった)。

 その事情を説明するにあたって、ルーズベルトとともに注目すべき人物がいる。1940年当時の太平洋艦隊司令長官、ジェームス・オットー・リチャードソン海軍大将である(当時のアメリカ海軍太平洋艦隊はアメリカ海軍戦闘艦隊であった)。リチャードソン大将は、太平洋艦隊司令長官と共に大西洋方面の艦隊である哨戒艦隊司令長官を兼務した。

リチャードソン海軍大将

 対日慎重派であったリチャードソン大将は、ルーズベルト大統領と対日戦略で鋭く対立していた。ルーズベルトは大統領選の年であったため、とりわけ国内世論動向を気にしており、リチャードソン大将の対日慎重論を許せなかった。結果的に、リチャードソンたちの対日慎重策が退けられて、真珠湾攻撃を招来することになった、というのだ。

 リチャードソンは日本の真珠湾攻撃を予見し、日本に攻撃を踏みとどまらせる対応と、ハワイ防衛体制の強化を訴えていた。しかしルーズベルトは第2次世界大戦に米国が正式に参戦する口実を造り上げるために、あえて日本に先制攻撃を実施させ、真珠湾の将兵を見殺しにしたという説がある。