確かに古代のストア派の哲学者たちは、情動に動かされないことこそ、賢者の理想の境地と説いた。しかし自らの生命を左右する「事前指示書」を書く段にあたっては、あまりに理性的になりすぎて、「潔く」「格好良く」ありたい気持ち(日本では「恥」)が先に立ってしまうと、大切な人とのこの世での再会のチャンスを永遠に失うことになりかねないのである。

同意していなかった「気管切開の処置」に感謝した患者

 京都大学名誉教授の哲学者・加藤尚武氏は、その著作の中で次のように述べている。

「私のよく知っている先輩の哲学者が、まだ三十代のころに『医者は死にかかった患者の気道を切開して数日間を生き延びさせる。しかし、患者は言葉を発することができなくなる。自分にはそういうことは絶対にして欲しくない』と言つた。・・その彼が六十歲で死ぬことになるのだが、死の直前に気道切開を受けたという。彼自身は気道切開に同意していなかったはずである。というのは、夫人から『最期のときに自分の喉を指さして医師に向かって〈ありがとう〉という仕草を何度かした』と聞かされたからである。つまり『自分は気道切開に反対していたが、(奥さんと再び会えた)いまでは医師が気道切開をしてくれたことに感謝している』ということを、文字通り必死の思いで伝えようとした」(加藤尚武著作集第8巻、未來社)

 意思表示が明確にできる時に示した意思が、その人にとって最良の選択肢なのかどうかはまた別の問題だ。本人が事前に示していた意思とは違った処置を受けたほうが、幸福な最期になることだってあるのだ。加藤氏の一文は深くそのことを示唆している。

 だから医療者は患者が「事前指示書」を作成する際に、そのことも気づかせてあげる必要がある。そして何度でも書き換えることができる自由も必要だ。

 そのためには、もう一歩踏み込んで、患者―医療者の「共同の意思決定」が求められると私は思う。重篤な病気を抱えている患者は、闘病や家族への気兼ねなどで、精神的に追い込まれていることが多い。医療者はそうした患者の状況をよく理解し、患者の意思決定の「分業」を担う必要がある。

「それは患者の自由の侵害にならないのか」と批判する人がいるかもしれない。そうではない。それは、患者を死のストレスから解放させ、自由を取り戻させるという意味で他者危害排除とも言えるだろう。行き過ぎた理性も一種の狂気なのだ。そこで求められるのが、引用した文章に登場する医師のような態度なのだ。

 ただ、現在の日本の医療者にそのような役割は期待できるだろうか。日本では諸外国と比較して医療者の絶対的な数の不足が指摘されている。医療者には患者の身になって相談に乗る時間がないというのが現状らしい。問題はそれだけではないだろう。フランスでも新法作成において指摘されたのだが、やはり医療を学ぶ者は、「たこつぼ的な」専門教育だけでなくて、緩和ケア・倫理・終末期の専門知識、さらには不必要だとしばしばいわれている哲学をはじめとする一般教養を身に着ける必要がある。医師の人間的な責任は、患者の身体的な機能的完全性を超えて、患者の幸・不幸という次元の中に向けられているからだ。

 それら無くして、「スイスやオランダで取り入れられているから」「制度を望む声が多いから」という理由だけで、安楽死や自殺ほう助の法整備を進めるようなことになれば、この国の終末期医療は救いようがないほどの混乱を来すことになるだろう。