誰かに話を聞いたり、あるいは、本を読んだりして、「なるほど、そういうことか」と理解できたことがあるとしよう。ビジネスの話でも、学問の話でも、人間の感情の話でもいい。僕たちは普段、さまざまな情報に触れながら、「理解した」と思う場面が多々あるはずだ。

 しかし、その「理解した」ことについて、誰かに話そうとして、あるいは文章に書こうとして、立ち止まってしまうことはないだろうか。あれ? 聞いた時はちゃんと理解したつもりでいたのに、説明しようとするとうまくできないな、と。

 そういう場合、問題は2パターン存在しうる。アウトプットする能力が弱いか、あるいは、「理解した」という認識が誤っているかだ。

 アウトプットする能力が低い、つまりしゃべるのが苦手、文章を書くのが苦手、という場合あるだろう。それはしゃべり方や書き方を学ぶことで、改善されることもあるだろう。

そもそも「理解した」のか?

 しかし、僕の印象では、そうである可能性は低い、と考えている。それより、「理解した」という認識が誤っている、という可能性の方が高い。はっきりとした根拠はない。しかし、こんな風には説明できる。

 例えば、世の中にはダイエット本が山ほど存在する。次から次へと新しいダイエットが登場する。この状況はある意味で、「ダイエット法をさまざまに試してもうまくいかないと感じている人が多い」ということだろう。ということは、問題はダイエット法そのものにあるのではない、と考えることもできるだろう。

 同じような理屈を、アウトプットにも当てはめられる。世の中には、しゃべり方や書き方についての本がたくさんある。常に新しいものが出てくる。それは、しゃべり方・書き方をさまざまに試してもうまくいかない、という状況を意味しているかもしれない。だとすれば、アウトプットのやり方そのものの問題ではない。

 そして今回紹介する小説は、まさにその“「理解した」という認識が誤っている”ということをより強く実感させてくれるものだ。