武田義信は自害かそれとも父親に殺されたのか?

武田義信の墓(筆者撮影)

 義信が、どのような経緯で死に至ったのかはわからない。

『甲陽軍鑑』品三十三では、「義信公御自害」とある。ただ、この点に関して言えば、同じ『甲陽軍鑑』でも、品三十九には異なる最期が記されている。ここには、信玄との和睦を仲介した将軍・足利義昭に対して織田信長が送った書状が収録されており、信長は信玄の非道を訴えている。

 その中の1条に、「嫡子太郎(義信)、いはれなき籠舎におこなひ、あまつさへ鴆毒(ちんどく)をもつて殺すこと、法にすぐ」とある。鴆毒というのは、伝説上の鳥である「鴆」(ちん)の毒という意味で、簡単にいえば、毒殺されたのだというのだ。これが事実かどうかは不明だが、少なくとも、義信が自ら死を選んだのではなく、信玄に殺されたという噂が広まっていたことは確かである。

 そもそも、飯富虎昌は、信玄を暗殺するというような計画を本当に練っていたのであろうか。こればかりは、今となってはわからない。ただ、信玄の駿河攻めについては、異論も多く、信玄に反発する家臣も少なくなかったらしい。

 永禄10年(1567)8月、信玄は家臣団に忠誠を制約させた起請文を生島足島神社に奉納している。起請文というのは、一種の契約書のようなものであり、もし、違反すれば神罰を受けることを誓ったものである。このような起請文を提出させていることからも、信玄が家臣団の離反を恐れていたのは確かであった。

 もしかしたら、これで家臣団がまとまれば、信玄は義信を復帰させるつもりがあったのかもしれない。しかし、義信を奉じて信玄に反旗を翻す勢力が出現するという危惧を払拭することができなかったのだろう。それが、義信の殺害に至ったものと思われる。

 家督を相続するとみられていた義信が死去したことで、その異母弟にあたる勝頼が後継者となった。この勝頼は、決して器量に劣っていたわけではない。しかし、ひとたび溝が生じた家臣団をまとめるのは、容易ではなかったろう。

 もし、信玄が義信を殺さずに家督を譲っていれば、あるいは武田氏が滅亡することもなかったのかもしれない。