武田信玄と今川家との浅からぬ関係

 もっとも、信玄は、駿河の今川氏と相模の北条氏とはいわゆる「甲相駿三国同盟」を結んでおり、同盟を維持しようとすれば、駿河に進出することはできない。駿河への進出は、ただたんに今川氏と敵対することになるというだけではなく、今川氏と同盟する北条氏との戦端をひらくという意味でもある。

 だから、駿河への進出、すなわち今川氏との断交については反対する家臣がいたとしても不思議ではない。とくに、信玄の嫡男であった義信は今川義元の娘を正室に迎えていたから、今川氏との断交には積極的ではなかったろう。

 もちろん、なにぶんにも戦国時代のことだから、妻の実家だからといって攻めないということもない。しかし、「甲相駿三国同盟」を崩壊させることが将来的な不利益につながるという考えもあったはずである。

 そうしたなか、武田氏の歴史と軍法を記した『甲陽軍鑑』によると、永禄7年(1564)、義信の傅役である飯富虎昌らが信玄の暗殺を計画としていることを、飯富虎昌の実弟・山県昌景が密告した。そして、信玄は、次のような5か条の罪状をもって飯富虎昌を処刑する。

 1、信玄が若かりしころから、飯富虎昌を呼んでもすぐに返事をしなかったこと。
 2、信玄の戦略や戦術について、常々、家臣の面前で批判していたこと。
 3、川中島の戦いでの苦戦について、信玄の軍略が劣っていると公言していたこと。
 4、信濃を高坂弾正が一人で守備しているのは、信玄の軍略の成果であること。
 5、義信が若気の至りで謀反をおこしたとき、飯富虎昌が諫めるどころか主導したこと。

 以上の罪状によって、信玄は飯富虎昌らを処刑してしまった。ただ、このとき28歳の義信は殺さず、甲府の東光寺に幽閉している。『甲陽軍鑑』では、これは信玄の「御慈悲」だったとしている。

 義信は、上杉謙信と死闘を繰り広げた川中島の戦いでも活躍しており、前途有望な青年武将に成長していた。信玄としても、謀反の真否を確かめたかったのかもしれない。しかし、2年後の永禄10年(1567)10月、義信は幽閉先の東光寺で命を落とすことになった。享年は30と伝わっている。