この考え方に従うなら、相撲の勝敗は相撲取りの「実力」ではなく、相撲道に精進する力士の取り組みを通じて「神意」が示されているわけですから、

 「アイム・ザ・チャンピオーン!」と見えるようなスタンドプレーなど、もってのほかということになります。

 この種のメンタリティは21世紀の今日もまだ脈々と息づいています。

 昭和の大横綱などと言われた人たちが、みな一様に寡黙でそっけなく、精進の結果、勝たせていただいている、式の謙虚なコメントを好む日本人は、現在のティーンエージャーにも見られるのではないでしょうか?

 同じことを欧米由来のスポーツ、例えば野球やサッカー、陸上やアイススケート、あるいは将棋などの世界に持ち込めるでしょうか?

 「将棋の神様に勝たせていただいた・・・」なんて棋士もいなければ、スケートの神様のお陰でF難度に成功、なんて思うアスリートもいないでしょう。

 ただ、万事、こういうことは、自分との闘いですから、「アイム・ザ・チャンピオーン!」みたいなスタンドプレーは、あまり感心されないかもしれません。

 逆にプロレスや総合格闘技みたいなショーで、その手のアピールがなくなったら、およそ素っ気ないことになるでしょう。

 「SUMO」が現代日本現状のようにローカルなスポーツとして続くのか、どのような国際化があるのかないのか、栄えるのか廃れるのかは分かりません。

 ただ、世界から優秀な若者が集まって来るような状況では、過去の価値観は必ず相対化されることを免れないでしょう。