An-225の完成後、ブランを載せて何度か飛行したが、すぐにソ連が崩壊し、ブラン計画も中止となった。

 An-225は2機の製造が計画されたものの、完成したのは1機のみ。もう1機は胴体の構造が完成した状態で、アントノフのキエフの工場で放置されている。

 その後、An-225はアントノフの所有物になり、アントノフが手持ちの輸送機で始めた貨物輸送航空会社「アントノフ航空」で運用されることになった。

 現在も、An-225は他のいかなる航空機でも輸送できない大型貨物の空輸に活躍している。稀に日本にも飛来することもある。

アントノフの凋落

 ソ連崩壊後、繁栄を謳歌していたソ連の航空産業は凋落する。

 大ユーザーだったソ連軍もアエロフロートも解体され、旧東側諸国の軍隊や航空会社も旧ソ連の航空産業から離れていった。一定の顧客が残った軍需に対し、民需は壊滅的であった。

 ウクライナでも、ロシアと同じく、1994年には航空産業はほぼ壊滅していた。

 アントノフもソ連時代は3日に1機のペースで航空機を完成させていたが、1990年代後半には年間数機をなんとか完成させているというレベルまで生産数が落ちた。

 2000年代、ロシアの経済が復興し、ロシアでは新型旅客機スホーイスーパージェットが開発され、年間20機程度製造されるようになった。ウクライナも経済の復興が始まり、アントノフでも新型旅客機「An-148」を開発した。

 An-148はスホーイスーパージェットと同じく、乗客100人弱を乗せるリージョナルジェットと呼ばれる規模の旅客機である。

 An-124に比べればはるかに小さいが、立派に就航し、相手はキューバや北朝鮮であるが輸出もされている。