「あいつら」を「私たち」と捉えるためにはどうしたらいいか。

 M&Aなどで違う企業同士が合併するというのは、今の時代、よくある話。自社の強みと相手企業の強みを互いに生かせば相乗効果が得られる、という期待のもとに行われることが多い。

 しかし、企業文化同士がぶつかり合い、なかなかうまくいかないことも多いようだ。一方の企業文化を押し付け「お前はたちはもうA社の社員なのだから、このやり方にしたがってもらう」と、問答無用の態度を示すと、吸収された側は強く反発し「なんだこのやり方は! 全くもって不合理、不条理だ!」と怒り出しかねない。そのうち、吸収された側のB社は、A社側の人間を「あいつら」と呼び、妙に結束を固め、再び分裂せざるを得なくなることも起きてしまうかもしれない。

 反発されてはいけないと、相手企業の文化の違いを尊重してみると、互いに違いを尊重し合うばかりで、いわゆる「敬遠」となり、文化が混じり合うことなく、「私たち」と「あいつら」に分断したまま、相乗効果をもたらすこともできない、ということも起きうる。

 早く「私たち」となって、一緒に課題を克服していけるとよいのに、「私たち」と「あいつら」に分断して、場合によっては憎み合い、それよりはまだマシであっても「敬遠」しあって、力を合わせることができない、ということは、M&Aほどの大きな出来事でなくても、小さな場所でもよく起きることだ。

 部下の気持ちをくみ取れない上司や会社上層部を「あいつら」呼ばわりする部下たち、上司の熱心な指導にも関わらずやる気を見せない部下たちを「あいつら」と罵りたくなる上司。「あいつら」と敵視する対象を見いだし、「私たち」として結束する場面は、さまざまなところで見かける。学校のいじめの場合は、一人の生け贄を「あいつ」呼ばわりして排除する行為だと言える。