大英帝国が残した「負の遺産」とは

 アウンサン将軍の一人娘であるアウンサンスーチー氏が、英国と密接な関係を維持してきたことは、よく知られている。初等中等教育を旧英国領であったインドで受け、その後は英国に渡ってオックスフォード大学を卒業し、英国人と結婚している。英国にとってアウンサンスーチー氏の存在が大きなアセットであることは言うまでもない。

 アウンサンスーチー氏はまた、1985年から客員研究者として京都大学に1年間滞在している。日本と密接な関係を持っていた父親の足跡をたどるため、日本人関係者とのインタビュー調査を行っている。このインタビュー調査の記録が、いまだに研究成果として発表されていないのは残念なことだ。だが国家顧問兼外相として国政に携わっている状況では、多忙のため実現は難しいだろう。

 ミャンマーには、大英帝国が植民地時代に残した「負の遺産」がある。現在にいたるまでミャンマーでは国内の内戦状態が終結していない理由の1つに、「分割統治策」があることは知っておくべきである。分割統治策とは、多民族状況において、異なる民族どうしを互いに牽制させることによって、少人数での植民地支配を可能にした政策である。

 ミャンマーだけでなく、マレーシアでもイラクでもナイジェリアでも同様の政策が採用され、現在に至るまで大きな問題となっている。難民問題として世界的にクローズアップされている「ロヒンギャ問題」も、問題の根源は英国の植民地統治にあることは否定できない事実だ。

戦後の経済成長は実現できず

 もしアウンサンが生きていれば英国との関係はどうなっていたのだろうか? 日本との関係はどうなっていたのだろうか? 連邦国家での多民族の共存がうまくいっていたかもしれないし、英連邦に加盟していたかもしれない。道路も左側通行のままだったかもしれない。あるいは、そういう想定は外れていたかもしれない。

 道路が右側通行に変更されたのは、独裁者ネ・ウィン将軍(1910~2002年)の時代のことだ。1970年12月6日から道路が右側通行に変更されたのは、一説によれば星占いの結果だという(ミャンマーやタイでは星占いによる意思決定は特に珍しいことではない)。アウンサンの暗殺後、同じく「ビルマ独立の志士」の1人であったネ・ウィンによる独裁がなんと1988年まで続くことになる。日本がネ・ウィン体制を支持し続けたのは、戦時中の深くて濃い人的関係が前提にあったからだ。ビルマ独立義勇軍は、その後はビルマ国軍となり、現在に至っている。日本との濃厚な関係は1988年の軍政開始まで強固に続いていた。