それと同様に、アレクサンドロス大王も道なき荒野を、軍隊を従えて突き進んだのではありませんでした。そこには「道」があったのです。
アケメネス朝は、オリエントを統一した大帝国です。より正確に言うなら、古代エジプト文明とメソポタミア文明が前671年にアッシリアによって統一され、オリエント統一がなされました。アケメネス朝ペルシアは、その後継者でした。
広大な帝国であるアケメネス朝は、中央集権化が進んでいました。「王の目」「王の耳」と呼ばれる行政官が国王によって任命され、地方の状況を国王に報告しています。その中央集権体制を支えるために必要なインフラとして、帝国の公道を建設していたのです。中でも、都のスサから小アジアのサルデスに至る2500kmの道は有名です。
このアケメネス朝の公道、もともとはインダス文明とメソポタミア文明を結ぶ商業ルートだったものを利用し、さらに巨大化したものだと考えられます。
アレクサンドロス大王とその軍勢が通ったのもこの公道でした。つまりアレクサンドロス大王の遠征は、アケメネス朝が整備した公道があって初めて可能だったわけです。この種のことは、ライフネット生命元会長で世界史に関する著作も多い出口治明・立命館アジア太平洋大学学長も述べています(『大世界史』上、新潮文庫)。
アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス大王の遠征は、その後、インダス川を越えようとします。ギリシアの脅威となるアケメネス朝を滅ぼしたのですから、それが目的であれば、さらなる遠征は必要なかったはずです。
にもかかわらず、彼はさらに東に向かおうとしたのです。
ところが大王の軍勢は、インダス川を渡ったところで引き返さざるを得なくなりました。私は、アケメネス朝の領土から大きく離れたその場所にはもう軍隊を移動させられる大きな道がなかったことが最大の原因だと考えます。
言い換えるなら、アレクサンドロス大王が実現した東方遠征は、彼の行動力、軍隊統率力の能力を示す事実ではありますが、それ以上にオリエント世界が築き上げた交通網の偉大さを証明していると言えます。この交通網の整備は、統一国家がなかった古代ギリシアでは、到底不可能でした。
アレクサンドロス大王をどう評価すべきか
アレクサンドロス大王は、東方への遠征からの帰国後、アラビア攻略を計画中に病死してしまいます。
悲劇はさらに続きます。
その帝国は、大王個人のパーソナリティによって統合されていたにすぎなかったため、彼の死後、たちまちのうちに分裂し、アンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトに分かれてしまうのです。
これは、大王に帝国を長期に渡って統一するビジョンがなかったことに大きな原因があったと私は分析しています。