そして、関東は戦国時代へ

 江の島合戦はひとまずこうして終息し、成氏も上杉憲忠もそれぞれ鎌倉に戻って政務に復帰しました。

 しかし京都の幕府の方では、1452年、管領がこれまで「成氏派」と「憲忠派」の仲裁に務めてきた畠山持国から細川勝元に変わると、関東管領を経由しない訴状は受け付けようとしないなど、露骨に関東管領派をひいきする政策に切り替えられてしまいます。

 こうした中央の措置もあって、両派の対立は日に日に激しくなり、江の島合戦から5年後の1455年、成氏は憲忠をおびき寄せて謀殺してしまいます。

 この謀殺は、“父の敵”の息子への意趣返しであったとする意見もあります。成氏の父親の持氏(もちうじ)は、憲忠の父親である上杉憲実から攻撃を受け、自害へと追い込まれています(=永享の乱、前回を参照)。

 しかし、筆者としてはもはやその手の恩讐の果てといった話ではなく、猛烈な派閥抗争の末に起きた事件ではないかと思えます。そして実際、この謀殺をきっかけに成氏派と、憲忠派改め関東管領派は再び抗争を起こし、関東を真っ二つにして戦う日本版30年戦争こと「享徳の乱」(1455~1483年)が始まります。「応仁の乱」(1467~1477年)に12年先駆け、こうして関東地方では一足早く戦国時代へと突入することとなるわけです。

 享徳の乱では鎌倉を追われた成氏が古河(現茨城県古河市)に本拠を構え、ちょうど利根川を東西の境目にし、両陣営で和議が成立するまで実に28年間争い合うこととなります。京都の幕府も、この関東の混乱を鎮めようと当初は軍勢の派遣を検討したのですが、こっちもこっちで応仁の乱に入ってしまい、その計画は頓挫してしまいます。

 解釈にもよりますが、筆者としてはこの「享徳の乱」勃発をもって関東は戦国時代に入ったと考えています。事実、この後の関東甲信越地方では下剋上が相次ぎ、最終的に関東の支配者となる北条家の始祖、北条早雲の名が出始めるのもこの享徳の乱のあたりからです。

◎通して読もう!

(1)「応仁の乱」よりも前から鎌倉は戦国時代だった
戦国時代前夜の関東で起きていたこと(前編)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50787

(2)かつて湘南ビーチは合戦の舞台だった!
戦国時代前夜の関東で起きていたこと(後編)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50789

(3)「関東版の応仁の乱」は約30年も戦っていた
戦国時代前半の関東~激しすぎる抗争史(前編)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50855

(4)本家と分家がつぶし合い、上杉家の抗争「長享の乱」
戦国時代前半の関東~激しすぎる抗争史(後編)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50856