そのきっかけは、成氏派による領土横領だと言われています。幼少の頃の成氏を助けた簗田持助(やなだ・もちすけ)という者が長尾家の伝来の土地を横領し、鎌倉府も長尾景仲からの再三の抗議があったにもかかわらず簗田に返還するよう命令しなかったというのです。おそらく、それ以外の積もり積もった対立の怨みなどもあったのでしょう。
もっともこの時の軍事行動は、あくまで長尾家、太田家の単独行動によるものでした。この2人の主に当たる関東管領の上杉憲忠は事前には全く知らされておらず、上杉家の総意を得た行動ではありませんでした。こうした事実を裏付けるよう、鎌倉から江の島へと逃れた成氏を支援するため、上杉家からも軍勢が派遣されています。
幕府裁定でノーサイド?
江の島合戦では、長尾・太田連合軍が鎌倉を奇襲したものの成氏を取り逃がし、成氏は逃げ込んだ江の島で支持者と合流し、追撃してきた長尾・太田連合軍を由比ガ浜の海岸で撃退し、両軍は一時膠着状態に至ります。長尾・太田連合軍は鎌倉を、成氏派は江の島をそれぞれ陣地として睨み合いの状態となりますが、成氏側から京都の幕府へ事件報告が行われ、反乱者処分を含めた仲裁申請が出されます。
この求めに応じる形で、当時の幕府管領である畠山持国(はたけやま・もちくに)は、事件発生を受けて一時謹慎していた関東管領の上杉憲忠に鎌倉へ戻って政務に復帰するよう指示します。そして、関東の武士たちに改めて成氏への忠誠を誓わせました。
しかし実際に反乱を起こした長尾景仲と太田資清へのお咎めは一切なく、ノーサイドとされました。突然脈絡なく命を狙われた成氏の心境からしたら、ノーサイドどころではなかったでしょう。