大虐殺関与の 「真実見よ」とルワンダ、仏大使の式典出席拒否

ルワンダのニャマタにある虐殺記念館で、1994年に起きたジェノサイド(大量虐殺)で被害を受けた子供たちの写真を見る来館者〔AFPBB News

 30年ほど前、私がまだ20歳頃の話です。学園祭の委員として「入試」を取り上げたことがありました。ゲストでお呼びした数学の森毅・京都大学教授(当時)の開口一番が素晴らしかった。

 「学校いうんはアホをいれて賢うして出す所やのに、いまの日本は賢い子を入れてアホにして出しとる」

 場内も、ほかのパネリストも大爆笑となりました。でも、「これってただ笑って済まされる話ではないよな」と、司会進行をしながら率直に思ったものでした。

 ところでここで言う「アホ」とはいったい何でしょう。あるいは賢いとは?

 大学は賢い子を本当に選抜できているのか。これからの日本で、教育や研究の改革はどのように進めればよいのか?

制度の設定不良

 2016年10月8日土曜日は1日がかりで「国大協大学改革シンポジウム」を東京大学福武ホールで開く予定です。午前中は英語のセッションで米ハーバード大学、独ミュンヘン工科大学と日本の国立大学が国際社会で担う固有の役割を考えます。

 この内容も本連載のどこかでしっかり扱うつもりですが、今回のテーマは午後のセッション、白川英樹教授や鈴木寛さんたちと議論したい、初等中等教育からイノベーションと歴史への貢献を考える内容です。

 幾度も記す事ですが、勉強と研究は「天地ほどに違う」と言うか「オスとメスくらいには完全に別物」の側面があります。

 私自身の職掌を例にお話ししましょう。音楽には演奏という仕事と作曲という仕事、異なる2つがあります。素晴らしい演奏の大家で、作曲させるとさっぱりという人もいるし、卓越した作曲家が練習不足でピアノでコケるといったこともごく当たり前にある。

 小学校からずっとピアノを習って練習している女の子がいるとしましょう。それが高校なり20歳過ぎなりになって、それまで一度も作曲なんて習いもしない、考えたこともないのに

 「新しい曲を作ってごらん」

 と言われたら、とまどいませんか?

 皆さんご自身を考えてみたらいい。小中学校の音楽の授業でいま何を教えているのか正確には知りませんが、突然「プロベースで通用する楽曲を作りなさい」と言われたら、とまどうと言うか、無理だと反応するのが普通でしょう。

 当たり前のことです。で、日本の制度はそれに類することをやっている。制度として完全におかしなことがまかり通っていると指摘すべきです。