「オーケストラ音楽やオペラで用いられる『指揮』のテクニックは、社会の広範な局面に応用が利く」

 この話はかなり古くからあるもので、私も10年、20年前からことあるごとに言及していますが、今回はここ数年、鈴木寛さんとお話ししている「社会指揮者」ソーシャル・コンダクターの考え方と、その「育成講座」についてお話ししたいと思います。

上司は下僚の奴隷

 何事にも言えると思うのですが「人を使う」というのは「人に使われる」よりよほど大変なことが多い。さらに言うなら「人を使う」立場にある人の中で、かつ「人の使い方」のポイントをわきまえている人は、結構限られているかもしれない。

 しばしば語られる内容ですが、これを最もクリアに見せる例が、私の職掌である音楽の「指揮」という仕事です。

 例えば管弦楽のプレーヤー集団の真ん中で、あるいはオペラ劇場の指揮台の上で、いったい指揮者はどの程度「音楽」を作ることができるでしょうか?

 少なくとも、間違いなく言えることは「指揮者は1つも『音』を出すことはない」という事実です。

 つまり、指揮者は(仮に『音楽』を作ることができるとしても)「音」を出すことはな・・・いや、ドタバタともの音を立てたり、鼻息で合奏を合わせたりするケースがあるかもしれませんが、世界で見れば1.5流以上の水準では、もの音を立てる指揮者は相手にしてもらえなくなります。

 むろん例外はあります。例えばピアノやバイオリンの協奏曲のソロ、独奏を自分で弾きながら、合奏を指揮するというケースは分かりやすい。もちろん彼(彼女)は指揮者でもあるけれど「独奏者」でもあって、自らも音を出す演奏家として合奏をリードすることになる。

 でも、そういうケースは極めて限られ、大半のシンフォニーやオペラに「指揮者」用の「音を出すパート譜面」は準備されていない。

 つまり指揮者は「音を出さない音楽家」、合奏で出てくるすべての音は「奏者」「歌手」など、他の人が出す音で、指揮者自身はそれを聴くところから仕事が始まる・・・。

 このように考えると、指揮者という職業がいかに「受け身」つまり本質的に「受動的な職掌」であるかが見えてくると思います。