「おもてなし」という言葉がにわかに脚光を浴びている。
去る9月7日(日本時間9月8日)の国際オリンピック委員会(IOC)総会最終プレゼンテーションで、フリーアナウンサーの滝川クリステルさんが、客を迎える日本の伝統的な精神を「おもてなし」という言葉を通して世界にアピールした。
国内メディアが大騒ぎした割に各国主要メディアにはほぼ無視されたようだけれど、2020年の五輪本番に向けてこの「おもてなし」が東京発で世界へ大々的に発信されるかもしれない。
元は「扱う」意味だった「もてなす」
「もてなす」に漢字を当てると「持て成す」。元々は何かを持って成し遂げるという意味であり、日本では古くから使われている言葉である。
ただし平安時代には現在とは違い、単純に「取り扱う」「処理する」程度の意味で使われていたようだ。
『源氏物語』には「少納言がもてなし、心もとなき所なう」(少納言の取り計らいは行き届かないところがなく)のような用例が見られる。当時、現代の「もてなす」にあたる言葉としては主に「いたはる」が用いられた。伊勢物語第六十九段には「つねの使よりは、この人よくいたはれ」(いつものお使いの人よりも、しっかりおもてなししなさい)とある。
中世になるとこの「もてなす」が「珍重する」「もてはやす」の意味に転じていく。鎌倉末期の『徒然草』には「鰹といふ魚は、かの境には双なきものにて、このごろもてなすものなり」(かつおという魚は、あの地域では比類なきものであって、このごろ珍重しているものだ)とある。
いにしえの雅人たちへの憧憬から、洒落た言い回しとして昔の言葉を用いたものだろうか。中世の「もてなす」はただの「扱う」ではなく、「昔のお公家さんよろしく優雅な物腰で大事に扱う」ことであり、そのニュアンスで「珍重する」「もてはやす」の意味を表したのかもしれない。
さらに近世ではこの「大事に扱う」というニュアンスがさらに独り歩きして、人を「饗応する」「ごちそうする」という意味に変わってくる。
松尾芭蕉の『奥の細道』では「長途(ちやうど)のいたはり、さまざまにもてなし侍(はべ)る」(長旅の苦労のねぎらいとして、いろいろとごちそうをする)といった具合に使われ、江戸時代には現在とほぼ同じ意味で用いられていた様子がうかがえる。
千年の時を経てただの「取り扱う」から客を「歓待する」意味に発展してきた「もてなし」。そこに「お」がついて「おもてなし」。音韻的にも濁りがなく美しい言葉だ。