政界の刷新には政権交代が必要──。

迷走と与党ボケ

 そんな国民の期待を背負って2009年9月に発足した民主党政権は、普天間基地の移設問題や高速道路無料化などの主要政策で迷走中。かたや、「与党ボケ」から脱し切れない自民党は、最大野党として対立軸を示すことすらできずにいる。政界の刷新どころか、政治不信が一段と強まっているのが現状だ。

 日本の政治史を繙(ひもと)くと、1世紀近く前の大正末期から昭和初期にかけても、二大政党制による不毛な政争が国民の政治不信を招き、大政翼賛会政治、第2次世界大戦へとなだれ込んだ不幸な歴史がある。

 政治が国民の信頼を失っていくプロセスは、現代と共通する点が多い。忘れられつつある戦前の政治史を考察することで、現代の危機的な政治状況の先行きを占う。(文中敬称略/最終ページにこの原稿を読む際の参考となる年表添付)

戦前政治に見る二大政党制

 戦前の政治体制というと「藩閥政治家や軍部が独裁した暗黒時代」の印象が強いが、1924年から1932年の9年間にわたって政党のトップが首相に就いていた。しかも、加藤高明・若槻礼次郎(憲政会)→田中義一(立憲政友会)→浜口雄幸・若槻(立憲民政党)→犬養毅(政友会)と、2大政党による政権交代が着実に行われていた。

 当時は、首相経験者らで構成する「元老」が次の首相候補を天皇に推薦、これを基に天皇が首相候補に内閣を組織するよう命じる仕組み。衆院で多数を占めた政党のトップが首相に任命されるとは限らなかった。

 さらに、現代のように選挙を通じて多数党と政権が代わるのではなく、「政友会内閣が行き詰まったら民政党」「民政党政権が失敗したら政友会」といった形で首相と内閣が最初に交代し、その後に解散総選挙が実施されて衆院の多数党が代わる展開が多かった。

 その意味では、純粋な意味での「政党政治」「二大政党制」とは言えないし、現代の我々がイメージする「政権交代」とは少し様相が異なる。

 ただ、「大正デモクラシー」の追い風に乗り、国民の期待を集めた政党が藩閥や軍部の影響力を上回り、多数党が政権を組織する「憲政の常道」を実現していたのだ。

 では、戦前の二大政党制は何故、崩壊したのか。

政権欲しさにスキャンダル合戦

 理由の1つは政治腐敗とスキャンダルの暴露合戦だ。