我が国が、プーチン大統領の真意を見誤り、ロシアの意図に対する具体的な対応策を欠いて、外交努力や経済支援のみに依存する従来の手法から脱却できなければ、北方4島全部を取り戻すことは不可能とは言えないまでも、極めて困難であると言わざるを得ない。
そして、プーチン大統領の下で北方領土返還交渉が始められたとしても、これまで日ソ・日露間で行った不毛の交渉の歴史を繰り返すことは、火を見るよりも明らかである。
ロシア(ソ連)の南下・拡張政策と日本
ロシアが、ウラル山脈を越え、シベリアを踏破して極東(カムチャツカ半島から千島列島)まで進出したのは18世紀の半ばから後半である。不凍港を求め、また領土拡張のため東進を続け、ものすごい勢いで沿海州まで侵出した。
そして、日本海に面した要衝に、軍事・商業の中心都市であり東方政策の拠点となるウラジオストク(港)を開基した。1860年の北京条約によって沿海州一帯を清国(中国)から獲得したからである。
以来、「東方を征服(支配)せよ」の言葉どおり、隙あらば付け入ろうと機会をうかがってきた。
我が国周辺では、江戸中・後期ころから、ロシア船が千島列島そして北海道近海へ出没するようになった。
ロシア人の択捉島上陸(1797年)、ロシア使節の長崎来航と貿易要求、これを幕府が拒否したことに対する樺太・利尻島などへの侵入と幕府船の焼き討ち(1804年)、測量のため千島列島で活動していたロシア艦ディアナ号の国後島での拿捕と艦長ゴローニン中佐らの抑留(ゴローニン事件、1811年)など、日露間では交易を行いつつ、小競り合いや衝突が続いた。
徳川幕府は、蝦夷地への関心と注意を一段と喚起され、大規模な北方調査を開始した。
1798年には、幕臣で探検家でもある近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てた。また、伊能忠敬は東蝦夷地の海岸測量を行い、間宮林蔵は樺太を探検して間宮海峡を発見した。
日本は、米使ペリーの来航(1853年)を機に、開国に踏み切った。そして、1855年(安政元年)2月7日、日露両国は伊豆の下田で日露通好条約(いわゆる下田条約)を締結し、初めて択捉島とウルップ島の中間線を国境とすることを確認した。
国境線以南は日本領土となり、樺太は日露両国民の雑居地とされた。
明治の初期、我が国は、米国の元廈門(アモイ)領事で極東情勢に精通していたリゼンドル(フランス系米国人、退役少将)を外務省顧問に登用した。
彼は、「北は樺太から南は台湾に至る一連の列島を領有して、支那大陸を半月形に包囲し、さらに朝鮮と満州に足場を持つにあらざれば、帝国(日本)の安全を保障し、東亜の時局を制御することはできぬ」と建言した。
この地政学的な安全保障観が、以降、我が国の北方政策および大陸政策を展開する基本となっていった。