ソ連は、1945年4月5日、日ソ中立条約の破棄を通告した。本条約は、翌年4月に期限切れを迎えることになったが、この時期、我が国は、連合国との和平交渉の仲介をソ連に依頼した。
ソ連は、これを逆手に取って、曖昧な態度を取りつつ対日参戦の機会を窺った。そして、8月7日、ソ連極東軍最高司令部は軍事行動を命じた。翌8日、ソ連のモロトフ外相は、戦争状態に入ることを日本政府に通告した。
スターリン首相は、主作戦正面である満州方面での作戦が予期以上に進捗したので、朝鮮半島と並んで樺太および千島列島方面の作戦を急がせた。
そして、米国のトルーマン大統領に対して、ソ連軍の占領地域に千島列島全部を含めること、さらに、北海道の釧路と留萌を結ぶ線(いわゆる「スターリン・ライン」)以北の地域を含めることを繰り返し求めた。
その際、北海道占領を求める根拠は、日本のシベリア出兵に対する代償であると主張した。
トルーマン大統領は、ヤルタ協定で取り決めた以上、全千島列島の占領は認めざるを得なかった。しかし、北海道占領は拒否した。
では、なぜ、スターリン首相は、全千島列島の占領に加え、北海道占領を求めたのか。
ソ連が、北海道の東北部を領有すれば、千島列島と相まってオホーツク海を内海化(聖域化)し、他国の侵入や干渉を完全に遮断できる。同時に、宗谷海峡の航行の自由を確保するとともに、他国艦の通峡を阻止できる。
そして、万一、日本によって津軽海峡と対馬海峡が封鎖されたとしても、ウラジオストクの太平洋艦隊は、日本海~宗谷海峡~オホーツク海を経て太平洋への自由なアクセスが可能となるからである。
社会主義国となったソ連ではあったが、イデオロギー的要求は隠れ、軍事的・地政学的要求が第一義的に前面に押し出されている。つまり、これが、政権のいかんにかかわらずロシア(ソ連)が推進してきた対外政策・対外行動の基本姿勢であり、歴史が実証するロシアの本質である。
したがって、今日まで未解決になっている北方領土問題については、改めてこの核心的事実に焦点を当て、最大の関心を払い、具体的に軍事的・地政学的対応策を練って、現実的な展開を巻き起こす解決の道筋を作らなければならない。
戦後処理の不完全さと冷戦による現状の固定化
第2次世界大戦は、1941年6月22日のドイツによるソ連への電撃侵攻によって新たな段階に突入した。この時点では、米国はまだ大戦に参戦していなかった。
英国のチャーチル首相は、米国の対日参戦への期待等をもって米国のルーズベルト大統領と大西洋上で会談した。そこで調印されたのが「大西洋憲章」(1941.8.14公表)である。
本憲章は、両国による戦後世界に関する基本原則を述べたものであり、その第1項では領土の拡大を行わないこと、第2項では領土の変更は行わないことを固く定めている。
ソ連は、同年9月24日、「大西洋憲章への参加に関するソ連邦政府宣言」によって、英米が宣言した基本原則に同意することを表明し、大西洋憲章に参加した。
問題は、大西洋憲章に参加したソ連が、ヤルタ会談において領土の拡大変更を求め、英米がこれを容認したことである。