明らかに、大西洋憲章とヤルタ協定との間には、重大な矛盾が存在するが、これが米ソなど欧米流の冷酷なリアリズムであり、戦後処理に厄介な問題を残すことになった。
ソ連は、前述のとおり、日ソ中立条約を一方的に破棄し、条約の有効性を無視して日本に宣戦布告した。日本は、昭和20(1945)年8月14日、米英中ソの共同宣言である「ポツダム宣言」を受諾した。
ソ連は、我が国のポツダム宣言受諾後の8月18日から千島列島へ侵攻し、引き続いて北方4島を占領した。
日本は、昭和27(1952)年、サンフランシスコ講和条約(平和条約)の発効によって主権を回復したが、南樺太および千島列島の領有権を放棄した。
日本政府は、講和会議後の国会で、いったんは放棄した千島列島の範囲に国後島および択捉島が含まれると説明したが、昭和31(1956)年2月、その解釈を変更した。
ソ連は、サンフランシスコ講和条約に調印しなかった。改めて行われた日ソの平和条約締結交渉では、日本の北方4島の全面返還要求とソ連の歯舞群島・色丹島の2島返還論が真っ向から対立し、合意に至らなかった。
そこで、平和条約に代えて、戦争状態の終了、外交関係の回復等を定め、平和条約の締結後、ソ連が歯舞群島および色丹島を日本に引き渡すことに同意するという条文を盛り込んだ日ソ共同宣言に署名した。
結局、日ソ平和条約は締結されることなく今日に至っており、日露間における戦後諸問題の最終的な解決には至っていない。
日本の立場は、当初、混乱したが、北方4島はいまだかつて一度も外国の領土となったことがない我が国固有の領土であるとの絶対的な根拠を下に、あくまで4島の全面返還である。
一方、ロシア(ソ連)は、戦争で勝ち取ったものは渡さないというのが基本的姿勢だ。サンフランシスコ講和条約起草国のうち、アメリカは日本の立場を支持している。しかし、イギリスおよびフランスは、日本の立場に必ずしも好意的ではなく、この問題への関与に消極的である。
このように、戦後処理は、矛盾に満ち、曖昧さを残したまま一貫性を欠き、いまだに不完全・不徹底である。
戦後間もなくして、東西冷戦が勃発した。冷戦の厳しい対立は、ヨーロッパ正面と極東正面において顕著であった。
特に、オホーツク海は、優れた生残性を持ち、第2撃以降の報復攻撃兵器として対米戦略核戦力の中心的役割を持つソ連のSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)搭載原子力潜水艦(SSBN)の潜伏海域となり、北極のバレンツ海と対極をなす極めて重要な位置づけにあった。
また、当時は、ソ連地上部隊による北海道・北日本への着上陸侵攻、そして宗谷、津軽、対馬の3海峡を打通してなされる日本の海上交通路(シーレーン)に対する攻撃など、ソ連の脅威が現実味を帯びていた。その抑止が、我が国防衛の焦点となり、同時に、日米同盟における共同防衛の最重要課題であった。
北方領土には1個師団、樺太に2個師団、カムチャツカ半島に2個師団そして沿海州に約10個師団(1個海軍歩兵師団、9個師団)、合わせて15個師団に及ぶ大規模な地上戦力がソ連極東軍管区内に配置されていた。北海道・北日本は、3方向から求心的に攻撃を受ける不利な態勢の下、大きな脅威に晒され続けた。