新しい年を迎えるにあたり、居住まいを正す意味で今回は少し趣向を変えて書いてみたい。
JBpressのこの国防欄では防衛省・自衛隊OBの方々などが名を連ねており、その中で私のような者が偉そうに国防論を語るのは僭越至極である。そのため、なるべく私自身の経験をもとにしたリポートとしての執筆を心がけてきた。
伝えたいことは次々に出てくるのだが、ここで、あえて少し立ち止まってみようと思い至った。
「今」を犠牲にして戦ってきた日本人
いくら日本が大変だ、危機が迫っていると書いても、「なぜ、今それが問題なのか」が理解されなければ、この情報発信は全くの徒労である。わが国のお粗末な内情を明らかにするという意味では利敵行為とも言え、かえって国益を損ねかねない。
いや、そんなことを言ったら始まらない、一部の読者が共感してくれていればいいではないか、という言葉には慰められ励まされてもいるが、それでもなお漠然とした不安は拭えない。
それは、かく言う私自身が、国防を強化させることは「国民の安全・安心につながる」という言葉を使って説明していることが常で、実はこれは極めて単純化した言い方であるという反省もあるからだ。
この説明は、突き詰めて言えば、今、生きている人々が犠牲を払うことすらもあり得るという前提の上に立っている。
つまり、「国家を防衛するためには戦争が起こることもある」→「その際は多数の犠牲も余儀なくされる」→「国民の安全は損なわれる」→「しかし、その試練を乗り越えれば、結果的に国民の安全・安心を得られるかもしれない」という大きなタイムラグが前提となっている。
いくら国防のためだからと言って、現代人の国民の生命・財産が損なわれるなどというのは本末転倒であり、意味がないと批判されるのは避けられないだろう。
だが、歴史を振り返ってみれば、「今の犠牲」を払ってまでも、過去の日本人は戦いを選ぶ場面があった。