「ワイニング」というと、1990年代の後半、中央官庁の高級官僚が接待漬けになっているとして、国民から指弾を浴びた頃を思い出す。接待で飲ませ食わせすることを、当時英語の新聞は「wining and dining」と書いていた。
発音は同じ「ワイニング」でも、「whining」になると「ぐずり泣く」ことをいう。「クンクン泣く」などと、辞書によっては擬音を用いて説明している。
幼児か、犬を想像してみる。
親または飼い主の関心を、一身に集めていた。ある時、その幼児に妹(弟でもよい)ができた。またはその犬のほかに、もう1頭別の犬がやって来た。
その時、自分に向く親(飼い主)の関心が激減した幼児(犬)は、どういう態度に出るだろう。
ぐずって、泣く。
これが、to whineという動詞が表す状態である。普通、大の大人を念頭にしては使わない。
そんなコトバが、昨今のワシントンで日本と結びつけ、人の口に上るのだという話を聞いた。
やっかむニッポン、すねるニホン、ひがむニホンにいじけるニッポン。そして嫉妬し、うらやむニホン――慄然とさせるイメージだ。
「ぐずる日本」が広まった理由
なぜこんな印象が広まったのか。理由を3つ想像してみた。
(1) ワシントンで日米関係を扱う日本人という日本人が、お役人であれ企業人であれ、はたまた新聞記者であれ、千篇一律のことを言い、聞きしているのだろう。例えばこんな風・・・。
「オバマ政権になると、クリントン政権がそうだったように、日本のことは等閑視して、中国にばかり目を向けるんじゃないかと思うんですよ」
つまり、アメリカの関心は、わたし(日本)よりも、若くて意気のいいあの子(中国)に行っちゃうんじゃないですかと聞いている。
何と答えればいいだろう。土台、未来の話、未然の事態についての問いだから答えようがない。
なのに来る日本人来る日本人、判で押したように同じことを聞く。
そのうち聞かれる側は察しをつける。ははーん。これは明確な答えや議論を期待しているんじゃない。なら何だ、「同情」? 「慰藉」? はたまた「どやしつけ、一喝」?
要するに、未練とか、依存心の表出に過ぎないと気づく。一人前の大人が取るべき態度ではないと思い至る。で、念頭をよぎるのがto whineという動詞だ。
(2) そうした日本人が面会しに訪ねていく米国人の数は、極めて限られている。ワシントン全体で、恐らく50人もいない。コアをなすのは20人くらいの人たちだ。
そのごく少数の米国人は、やって来る日本人から毎度毎度、同じことを聞かされるのに食傷し、辟易する。第一、時間の無駄だという気がしてくる。
そこでそのことを、同業者につい愚痴る。すると、愚痴った相手がまったく同じ不満をかこっているのを知る。
「なんだ、あなたも」「え、やっぱりあなたも」――。このとき経済学で言う「ネットワーク効果」が起きて、日本人の悪評は一気に広まる。