中国4000年より深い「そば」の歴史9000年

旬到来!日本そばの進化は続く(前篇)

2011.11.18(Fri)漆原 次郎

 1992年には、長野県の郷土史家である関保男が、県南西部にある大桑村の定勝寺という寺で1574(天正2)年にしたためられた「定勝寺文書」の中で、「ソハキリ」(そば切り)の文字があるのを発表した。

 「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」「振舞ソハキリ 金永」

 これは、定勝寺の仏殿修理の落成祝いとして贈られた品物と贈答者の名前だ。徳利とそば袋を「千淡内」なる人物が贈った。そして、そば切りを「金永」なる人物が確かに振る舞っていたのである。

 関保男によるこの発見があるまで、書物における「そば切り」の登場は、近江の多賀大社の住職だった慈性(1593~1663)が1614年(慶長19)年2月3日に「江戸の常明寺でソバキリを振る舞われた」と書いたのが最古とされていた。関の発見により40年も時代をさかのぼったことになる。

救荒食からハレの食品へ

 1574(天正2)年の「定勝寺文書」より以前の書物では、今のところ「そば切り」の記述は見出されていない。謎の部分もまだ多いが、そば切りは16世紀のいつ頃かに誕生したものと考えてよさそうだ。

 そば切り、つまり麺としてのそばが世に出てからというもの、そばに様々な変革の手が加えられていった。江戸時代に入り、17世紀から18世紀頃には、そば粉に“つなぎ”としての小麦粉を混ぜるそばの製法が打ち立てられたとされている。

 そば粉のみのそばは「十割」(とわり)、小麦粉2に対してそば粉8の比率のそばは「二八」(にはち)、同様に、「三七」「半々」も誕生した。さらに、そば粉10として小麦粉2の割合の「外二」なども誕生した。粉の混ぜ方が多種多様になったのは、それだけ人々がそばに興味を持つようになった証しと言えよう。

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