中国・東莞で「宏得電子有限公司」を創業した新谷幸浩さんが初めて中国を訪れたのは、1984年のことだった。電子メーカーS社の香港工場の設立・オペレーションのために深センに派遣されてきた時だ。まだまだ中国という国がどうなっていくのか、予測もつかなかった時期だ。

 私も当時訪問して痛感したが、中国全土が限りなく貧しかった。

 鄧小平国家主席の「改革開放」「社会主義市場経済」という大改革が軌道に乗り始めた時期ではあるが、中国の人々の意識は、あまり変わったようには見えなかった。どこに行くにも「案内人」という名前の監視員がついて歩き、ホテルの出入口にホテル付の監視員がいるのは当然だが、各階の廊下の端っこに「おばちゃん」が座っていて、各部屋の人の出入りをきっちり監視していた。そのくせ夜になると、必ず女性のマッサージ師が呼びもしないのに押しかけてきた。

 歩いている人々はいわゆる人民服ばかりだった。また道路は大量の自転車に埋めつくされていた(あの自転車はどこに行ってしまったのだろう?)。

 当時は、中国人の誰もが無表情で無愛想で、商店でも空港でも企業でも、笑顔を見ることは非常に少なかった。「日本人と仲良くしているのを見られると、スパイと疑われるからだろう」と思っていたら、中国人に対しても不親切で無愛想だったから、「本来そういう民族なのかしらん」と思っていた(商店の店員さんが、愛想笑いをするようになったのは、95年くらいからだろうか?)。

 停電は年中無休、随時実行。夜の町は真っ暗だった。その真っ暗な町を、自動車は例外なくライトを点灯せずに爆走して、ヒヤヒヤしたものだった。道路脇の立木の下部がみんなまっ白に塗られていて、月明かりにぼんやりと見えて、かろうじて道路の進行方向が予測できた。

 新谷さんは、このような時代から苦労しながら中国での経験を積み重ね、紆余曲折を経ながら、95年に独立し、東莞に宏得電子有限公司を設立した。

 目下の生産品目は電子部品。特に精密コイル、コネクター、DVDピックアップ、各種モーター等々。一番得意にしているのは精密コイルだが、「頼まれてできそうだったら何でも引き受ける」の精神で、部品の製造から組み立てまで営業品目を広げてきた。従業員は目下約1000人である。

日本からの進出企業を受け入れる工業団地を造成

新谷さん(左)と伊藤さん(右)

 宏得電子有限公司の設立から10年後の2005年に、伊藤庄作さんが入社し、新谷さんと共同経営にあたり始めた。

 伊藤さんは金型の専門家で、生産技術に長けていた。伊藤さんがジョインしたことで、同社が得意にしている部品を金型の段階から製造することが可能になり、顧客の要望に細かく応えることができるようになった。また伊藤さんの生産技術で、自動製造機械も自社製作できるようになり、生産性は急速に向上した。