今年も我が家の一族郎党そろって富山で夏を過ごした。

 私と富山の関わりはこれで28年になる。地域振興整備公団の分譲課長に出向を命じられた時以来だ。分譲課長として、富山八尾中核工業団地を売らなければならないので、八尾町役場とは密接な協力体制をとった。

 八尾町当局は町長さんをはじめ皆極めて協力的で、やりやすかった。

 特に、当時、助役で、後に町長になられた梶本忠光さんは、極めて機知に富んだ方で、私も現在まで随分多くの人に出会ってきたと思うが、梶本さん以上にユーモアのある方には出会った覚えがない(今にして思えばコテコテのオヤジギャグだったかも)。梶本さんの行くところ、常に笑いが巻き起こるというお人柄だった。

 私のセールスのきめ台詞は、次のようなものだった。

 「新しい工場の立地場所を探すのは大変です。どんなに丁寧に調査しても調べきれない、予想外のことが必ずと言っていいほど起こります。だから土地を買うのではなく、地元の人の心を買うつもりで買って下さい。そうすれば、予想外のことが起こった時にも現地の人が必ず助けてくれます。その点、八尾の人たちは本当に協力的な人たちです」

 おかげさまで国際電気(現日立国際電気)や富士通が八尾中核工業団地に入ってくれた。

「おわら」がこれほど深いものだったとは

 ところで、そういう形で八尾の町と協力関係にあった時に、「八尾文化会議」というものが始まった。1984年のことである。

 メンバーは東京大学哲学科教授(当時)の今道友信先生、名古屋大学教授(当時、後に東大)の月尾嘉男先生、作家の高橋治先生(『風の盆恋歌』の作者)等々、爽々たるもので、八尾側からも町長、助役はじめ、八尾紙工芸館の吉田桂介さん、おわら保存会の清瀬一郎さん、皇漢堂鍼灸院の酒井博先生、町議会の川原敏彦さんなど、これまた多彩なメンバーであった。