「列は相変わらずで、いつまで待てばモノが手に入るのか誰にも分からない。遂に1人の男が怒りを爆発させ、『こんな状態を引き起こしたゴルバチョフに一発食らわせてやる』と叫んで列を飛び出していった。だが、彼はやがてスゴスゴと戻ってくる」
「うまくいったのか、と聞かれると、首を振りながら答える、『駄目だ、あいつの家の前には殴ってやろうという連中が押しかけて、ここよりもっと長い列ができてたんだ』」
だが、BBCニュース(2011年8月17日)によると、英国のジョン・メジャー元首相はこのジョークを、苦笑いするゴルバチョフ本人から聞かされたという。情報公開だけは進んでいたようだ。
保守派の危機感が8月のクーデターに昇華した直接の理由は、発生直後に予定されていた新連邦条約調印についてのゴルバチョフ以下の内部打ち合わせの模様がKGBに盗聴されたからだ、とBBCニュース(同上)は伝える。
ゴルバチョフはKYだった?
ロシア大統領府前の戦車の上で、兵士と握手するボリス・エリツィン・ロシア大統領(1991年8月22日撮影)〔AFPBB News〕
その場で、調印の動きに反対する政府要人たちを政府から追い出す構想まで話されていたという。盗聴も一種の情報公開を担うということになるのだろうか。
クーデターのあと、被害者だったはずのゴルバチョフの人気は一挙に失われた。拘束から解放された直後に行った記者会見での彼の姿は、およそ世界の超大国の元首に相応しいとは言えぬほどみすぼらしく(着ているものも顔つきも)、その2~3日前に、戦車の上に仁王立ちとなり国民を鼓舞したエリツィンとはあまりに対照的だった。
ゴルバチョフは生真面目でもKYだったのかもしれない。この記者会見で彼は、ソ連共産党への信奉を述べた。
だが、モスクワではその晩集まった群衆によって、ソ連支配体制のシンボルでもあったKGB本部前のジェルジンスキー(KGB創設者)の銅像が地に墜ちる。
モノの調達には気が遠くなるほどの時間がかかるソ連にあって、群衆がそうすると決めてからわずか4時間後に大型クレーン車が登場して銅像を引き倒した、と当時のTVニュースは伝えていた。
それでも23日に、エリツィンの牙城であるロシア連邦人民代議員大会にゴルバチョフはわざわざ出かけていき、議員のシカトもものかは演説を行った。だがその中で、ソ連共産党の中央委員会はクーデターに反対だった、と述べてしまった。

