ちょうど20年前の1991年8月18日にソ連でクーデター事件が起こり、それがその年末のソ連崩壊の引き金を引く結果になった。事件そのものは、最初から首謀者の腰がどこか引けたもので、結局は大量の犠牲者を出すこともなく呆気なく幕を閉じたのだったが、その後に及ぼした影響を改めて振り返ってみると、これは歴史の上ではかなりの出来事だったようだ。
8月にお決まりのクーデター記事
ロシアや西側のメディアがこの時期にこのクーデターについて様々な記事を組むのも、その影響の再評価が進んでいるからかもしれない。
事件は、自由主義・市場経済にベクトルを向けるミハイル・ゴルバチョフ・ソ連邦大統領のやり方に不安と焦燥を抱いた保守派が政権奪取を試みた、というもので、当時の副大統領、KGB議長、国防相、内相、最高会議議長など、ソ連の主要機関のトップがほぼオールスターキャストで揃い、「国家非常事態委員会」なるものの首謀者になった。
彼らは定石どおり元首・ゴルバチョフを拘束し、翌19日には占拠した放送局からクーデターの発生(ゴルバチョフに代わり副大統領がその執務を遂行)の旨を国民に伝えるところまでは事を進めた。
だが、当時の最大野党とも言えるボリス・エリツィン・ロシア共和国大統領(クーデター2カ月前の選挙により就任)が、事態の発生を知ると即座にクーデターは違法であることを記者会見でアピールし、モスクワ市内のロシア共和国議会のビルに集まった市民ともどもそこに立て籠もる。
その抵抗の姿勢がモスクワだけではなく他の都市にも広がり始め、最後にはクーデターの担保となるべき軍まで将校・兵士が言うことを聞かなくなり、抵抗派を弾圧することができなくなってしまった。そして、ゴルバチョフの軟禁拘束から数えてもわずか3日弱でこの騒動は幕を閉じる。
独立の動きを公然化させた血の日曜日事件
この事件の原因が、保守派(左翼)のゴルバチョフ改革の行き過ぎと体制崩壊への危機感にあったことは疑えない。
ペレストロイカ路線への反撥は、すでにその3年以上前の1988年から始まっていたが、保守派が、そしてゴルバチョフ自身ですら追い付いていけない程現実の世の中の動きは加速されていった。
特に1991年に入ると、1月のリトアニアでの「血の日曜日事件」を皮切りに、ソ連邦を構成する各共和国の独立の動きが公然化し始める。幸か不幸か、同じ月に起こった湾岸戦争でこの事件の影は薄くなってしまったが(すべてはCNNのせい・・・)、ソ連はすでにこの時点から崩壊しだしたと見る専門家も多い。
経済混乱も始まっていた。石鹸や洗剤などの必需品、あるいはニンジンといった生鮮食料品に始まり、モノ不足がモノのない社会主義国で深刻化していた。当時聞かされたジョークに次のようなものがあった。