評価の主体は誰?

AIに人が評価されるなら「1984」ディストピア状態

 一番の問題は「AI採点システム」はすべて「主体」を欠くという本質的な問題です。

 これは我々グループの准教授、私の研究室の第1期学生でもある今井健君(東京大学大学院医学系研究科、疾患生命工学センター)などともよく話すポイントです。

 例えば、胸のレントゲン写真から早期の肺がんを見つける「タスク」だけで言えば、いまや画像AIシステムは人間の医師の読影能力を凌駕してしまったといわれます。

 では、「AIが人間の医者より優れていて」「人間はお役御免となる」のか、と問われれば、そうではないんですね。

 カルテも、診断書も、人間の医師が責任をもって記さなければならない。仮に誤診があって医事裁判になれば、被告人は人間の医師、あるいは法人格を有する病院であって、AIが訴えられることはありません。

 冒頭の群馬大学医学部での教育システムで、同じ道理を肯定的に記しましたが、ここでのニュアンスは微妙です。

 五輪「モーグル」の採点でいえば5人ないし7人の審判が「ターン(60%)、エア(20%)、スピード(20%)の3要素で個別採点、合計100点満点で結果を競うと言っても、どのように「AI採点化」が可能か。

 その検討からして大仕事になります。

 仮にそうした評価基準ができたとして、それらの単純加算、機械の出力をもって「オリンピックの評価」とできるのか、と問われれば、まず100%無理でしょう。

「エア」での回転の回数などは正確に評価できるでしょう。でも例えば、かつてのフィギュアスケートの「アーティスティック・インプレッション」現在の評価法では「構成(Composition)」「プレゼンテーション(Presentation)」「スケーティングスキル(Skating Skills)」と呼ばれる要素を、どうやってAI自動化できるでしょう?

 ターンの完璧さ、さらには美しさなど、人間が受ける印象はAIでの客観視評価が原理的に不可能です。そもそも「五輪の名において」表彰することにならない。

 似て非なる例として医師の診断書が考えられます。

 極論「死亡診断書」であっても、機械システムは書くことができません。「息をしていない」「心臓が止まっている」こういった事柄は、測定機器の出力でも記せます。でも一人の人の生死を、機械が判定できるかと問われれば、それはできない。

 なぜなら、AIには自然人格も法人格もありません。責任の取りようがないからです。

 五輪は五輪の名において競技結果を判定し、メダルを授与します。また憲章に反するような行為があった場合には、剥奪の事例も広く知られる通りです。

 もし仮に、人間のパフォーマンスを100%、AIに評価される時代や社会が到来したら、それはジョージ・オーウェルのSF小説「1984」なみのディストピア、絶望社会と言わねばならないでしょう。

 すべてが数値指標化され、格付けされる窮屈な世の中? 冗談ではありません。

 しかし、幸いなことに、現状では、多くの種目について五輪「AI採点待望論」はネットワーク上の想像段階に留まっています。

 そんななか、一服の清涼剤となったのは、ほかならぬ堀島選手が、新種目「デュアルモーグル」で見せた「珍パフォーマンス」でした。

 幾度もの転倒の危機を乗り越え、最後は「後ろ向きでゴール」という世紀の珍プレー。

 何があってもやるときはやるんだ、やれるだけのことでベストを尽くす、AIでも何でも採点できるもんなら採点してみやがれ、とでも言いそうな意気込みを感じさせる、素晴らしい滑走でした。

 そんな破天荒な競技の末に、最終的には「銀」メダルを獲得

「メダルが目的」などという狭い了見ではなく、こうした競技そのものが焦点となる、アスリートの魂を感じさせる清々しいスポーツマンシップだったと思います。

 人間より上の判断基準にAIがいるオリンピックなんて、私なら、まっぴらごめんと思いますが、皆さんはいかがでしょうか?