同日の「独断専行に陥れば信失う」という社説も、端からケチのつけ放題だ。
「個別の政策論争よりも人気投票に持ち込んで『突風』を起こすことに成功した」と嫌味をいい、歳出拡大の財源や日中関係の打開策を問い、NHKの党首討論の欠席にアヤをつけ、「独断専行」ではなく「丁寧に合意形成を図る政権運営が求められる」と締めている。
楽でいいねえ、日本の「ジャーナリスト」は。
議論が尽くされ、合意が形成されたことがあるのか
中央大学法科大学院教授で弁護士の野村修也は、X(旧ツイッター)でこのようにつぶやいている。
「左派系メディアは、日本を蔑める発言や綺麗事で人間の欲望やビジネスを批判する発言こそが、知識人の証と勘違いするのは止めた方がいい。例えばスパイ防止法について、言論の自由を盾に議論することすら許さない姿勢は止めて、弊害を防ぐ作り方を考えた上で無理かどうかを発信する姿勢に転ずべきだ」
まさにそのとおりである。
これまでにこの国で、議論が尽くされ、合意が形成されたことなどあるのか。
政権側だけが悪いのではない。「リベラル」の側だって、自分たちの主張は絶対に枉(ま)げる気はないのである。
なにが「合意形成」だろうか。
形式的なきれいごとをいって、文句ばっかり垂れて、もう暗いのだ。
わたしは学生時代から、「リベラル」を自任していた。
「リベラル」といっても、きちんとした思想的裏付けがあったわけではなく、単純に、弱いものや小さいものの味方、といった程度だった。不公平や不公正も嫌いで、いじめをするやつや、いばってるやつが嫌いだった。
だがその一方で、死刑は賛成、もちろん総理の靖国参拝も賛成、人権は相手の人権を尊重する人間にしかない、と考える「リベラル」だった。
しかし定年後、その「リベラル」から転向したのである。「リベラル」がインチキでうそつきばかりで、ただの権威主義者とわかったからである。