つまり、いくら筋の通らない話であっても、支援と協力を取り付けなければ選挙そのものが成り立たない。成り立たない候補者を党として擁立する訳にはいかない。そういうのだ。
それでも私には選挙で次点にまで押し上げてくれた有権者がいる。私の名前を書いてくれた人たちが5万3000人以上いた。もう一度やってみろ、との声もある。
いったい、総括とされる場所で何が話し合われたのか定かではなかったが、ともかく関係者のひとりひとりに会うことにした。
「青沼を使い捨てにするのか」
まず、後援会長だったNに会った。この選挙区から国会議員を出したい、という望みもあって、もう一度だけ話し合ってみよう、ということになり、あらためて選対委員長を交えて3人で面談することになった。
厳しい(というより不機嫌な)顔でやってきたFは、そもそも選挙から3カ月以上も過ぎてどうしていまさら「総括」があるのか、わからなかったと言った。
「私は選挙の投開票日の夜に、『これで選対は全て解散!』と宣言したはずだ。それで選対の全ては終わっている」
はじめて聞く話だった。それでも私はもう一度だけこの地区から選挙に出たいと申し出た。そう押し通すしかなかった。何を言われても頭を下げる。
2時間近くは一方的に相手の言葉を聞いていただろうか。反論するわけにもいかない。すると最後に先方はこう言ったのだ。
「そもそもあなたは、立憲民主党がこの選挙区にこの人物を立てたいと、我々におろしてきた人物だ。そうであるならば、もう一度あなたを立てたいと、立憲民主党が後ろ盾にになって打診してくるのであれば、私たちはどうするか諮ります」
そうなのだ。私は立憲民主党の公募に参加したのだ。それで県連代表の代議士を通じて、この選挙区のこの人たちに会い、選挙に向かったはずだった。彼の言うことは理にかなっている。
事務局長とも後援会長を介して面談した。「私は組織の人間ですから、組織が決めたことには従うだけです」の一点張りだった。
私は県連の幹事長に連絡を入れた。党が彼らにもう一度擁立の諮問をしたら、受け入れられる余地はある。だから、党から私を推してくれないか、そのための話し合いがしたい。そう申し伝えた。
同時に岡田克也の事務所にも連絡をとり、同じことを直接代議士にお願いしたい旨を伝えた。
それから幹事長が伊勢にやってきたのは1週間後のことだった。あなたでは選挙にならない、と言われたことについて、私なりの見解を主張した。「選挙をやりたければ、カネをもってこい!」からはじまる、彼らの言動はいくら何でもひどすぎるのではないか。私は同じことを繰り返し説明した。幹事長はうつむきがちに黙って聞いていた。その上で、「総括」という現場で何があったのか、どんな発言があったのか、訊いた。彼は言葉を濁すように言った。
「ひとつは、あなたと意思疎通がはかれない、ということ。それともうひとつ出ていたのは、あなたが何をやっているかわからない、ということでした」
相手側の一方的な見解だった。遺憾だった。
ただ、それで選挙にならない、と党側が判断するのではなく、党側が私を彼らに諮ることによって、まだ選挙の態勢を整える余地はある、そう説明したつもりだった。幹事長は持ち帰って検討する、とのことだった。
そして、岡田克也とも面談した。事情を説明して、もう一度党から私を推してほしいとお願いした。最初は黙って訊いていた岡田だったが、やがて口を開くにつれ、君には感謝の心がない、と言い出した。みんな一所懸命やっているのに、君は選対が機能していないとまで言った、お礼のひとつも言っていないのではないか。みんな君から離れていくのは、君に問題があるからではないのか。一度、私に暴言が酷いと言ってきたことがあったが、そんなことばかり言って、感謝を忘れてはいか。そんな物言いだった。
まるで、前もって誰かから一方的に吹聴されているようにすら感じた。そして、退室間際の最後の一言に、私は愕然とした。
「だいたい、君が言っていたけれども、事務所を借りるのに、借りる側が契約書を作って持っていくのが常識でしょ」
市井を知らない、国民の生活を知らない人物の一言だった。
それからも多くの関係者に会って、支持を取り付けようと努力した。その中にあって、あの「総括」の場に参加したひとりが教えてくれた。
「会議がはじまってすぐに、選対委員長と連合の事務局長が話しはじめて、それもあなたの中傷ばかりだったから、驚いたんだよ。選挙の話どころではなかった」
それから立憲民主党と選挙区の県議たちとの会議が開かれたのは4月に入ってからだった。幹事長はもとより、現職を退いた中川元代表も駆けつけていた。加えて同選挙区内の元県議で議長まで務めた党の執行役員も参加した。彼は、私の選挙結果が次点であったにもかかわらず、県連の幹事から外した(つまり次の選挙に擁立しない)党の方針に反発していて、幹事会でも「青沼を使い捨てにするのか」と意見していたそうだ。