トップは現場に手を突っ込みすぎるべからず

 大規模言語システムは、いま記した通り「文字」で書かれた入力データを文字通りに受け止め、文字で特定します。

 和歌や俳句の「余情表現」がAIには無理な芸当であるのは、いま示した通りですが、これが企業における業務の指示などになると、かなり悲惨なことになります。

 どうでもいいような細かいことでもすべて指示書に文字で書かれている。やたら細かい。一通り読むだけで疲れてしまう。

 かつ、融通といったことが一切利きませんから「AIに管理」させると、就労者に一定以上のストレスがかかるリスクは、広く社会が認識しておいてよいポイントだと思います。

 すべてがコンピューターとロボットだけの無人工場などなら、それでよいかもしれません。

 しかし、被用者が一人でも存在する職場であれば、相手は頭も心も意見も気持ちもある人間です。冷血な機械ではなく「社会的情動」を持った生き物だということを、押さえておく必要があります。

 まして政治、特に外交交渉の現場では、複数の言語が、言外の意味を多様に重ね合わせ、救い取る意味のずれを各国が各々、都合のいいように訳し分けて、国内の議会や国民の了承をとりつけつつ、危うい均衡を保っている。

 そういう「大人のあいまいさ」が外交を支えているわけですが、それがAI出力そのままのドキュメントには、きれいさっぱり全くない。

 だから、それをアシスタントとして使うとしても、最終的にはよく練れた大人の人間の叡智によるコントロールが必要不可欠になるわけです。

 ちなみに「指揮教室」ではチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」などを用い「管理職は現場の仕事に手を突っ込みすぎるな」といった内容を扱います。

 これは亡くなった先輩ですので、表現を選びながら文字にしますが、小澤征爾さん流の「斎藤指揮法」では、細かな音符の縦のリズムを「厳密に」合わせようとします。

 そのため、彼自身の棒も細かく動く。結果的にテンポがやたら間延びして、音楽の全体像が何なのか分からなくなってしまうようなケースも少なくない・・・。

 こういったことは、30年ほど前、新日本フィルハーモニー交響楽団で演奏していた人なら、誰もがいくつか経験したと思います(私も経験しました)。

 トップが現場の詳細に手を突っ込みすぎて良いことはない、穏当な一例としてご紹介してみました。

 つまり「皆にまで言うな」なのです。

 企業や組織のトップや管理職が、あまりにも細かい細部を、しかも自分ができない仕事までコントロールしても、ろくなことはありません。

 まして経営の前線で、交渉事で、外交で、政治で、それこそ「皆にまで言う」必要はないでしょう。

 生成AIこと大規模言語システムは、生身の人間のように目玉もなければ腕もない。

 何一つ自分ではできないことについて、文字面だけで、しかし異様に細かな指定だけはしてくるという大変やっかいなマシンであることを、演算原理から理解しておくのは、とても重要なことです。

 一言で「AIでは代替不可能な非認知能力」などと言っても、その具体はなかなか分かりません。

 教室では体を使って、また小中学生向けのAI授業でも極力、実習を伴って、なおかつ一番「心を動かせながら」これからの時代に求められる、人間にこそ可能な「社会的情動スキル」のあり方を検討していきます。

 それが一番必要な一つは、政治の表舞台にほかならないでしょう。

「マシンまかせ」で盤石な、内政も、外交も、一つとしてあるわけがないのは、最初からわかりきっていることなのですから。