百人一首から考える言語のあいまいさ
実は、私の身近でちょっとしたアクシデントがありました。
それは、本連載でご紹介した東京大学QWSアカデミアスペシャル「指揮者はいかにして全メンバーの最大能力を引き出すか? ・・・経営者・管理職のための『東京大学・題名のない指揮講座』」で起きました。
入場無料のこの講座に、年明けに予約しようとしてくださった方々から「すでに満員、締切りになっていました」とのご連絡がありました。
満員御礼とはありがたいと思いながらも、そんなに人気があるものかとやや不思議に思ってもいました。
実際、事務局の手違いで申し込みできないようになっていただけで、実は定員まで十分に余裕がある状況だったことが判明しました。
この講座では、高市首相が何に失敗したかといったことにも通じる基礎を、実技とともに扱うので、それをご紹介しましょう。
マネジャー、経営者向けのAIリテラシー講座では、「文字面の表面」がすべてで、それを演算処理することを徹底して強調します。
早い話、書かれていないことは分かりようがありません。当たり前ですね。しかし、これを「百人一首」の例で考えてみましょう。
小倉百人一首の「第十番」蝉丸の歌
これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関
この和歌は、表面に見える文字で記されたことばの合間に記されない余情・・・「分かれ」「知る」「知らぬ」といった言葉の並びから、人間の読者なら連想する「無常」が感じられます。
それが鑑賞のポイントであるのは中学生や高校生でも理解は難しくないと思います。
逢坂(おおさか)の関を行き交う人々の出会いと別れを詠みながら、人生の無常を感じさせる名歌として、藤原定家も選んだと思います。
でも、これを英語に機械翻訳してみると、次のようになりがちです。
This, this—Whether going or returning, parting ways,
Whether known or unknown, at Ōsaka Pass.
文字通りの言葉の置き換えを出力してきます。全く味気ない英語になってしまっている。英語では分かりにくいと思うので、さらにこれを日本語に逆翻訳してみましょう。
これ、これ——行く者帰る者、別れの道 知る者知らない者 大坂峠にて
文字面の意味だけで、これでは余情も何もありません。
元の和歌であえてあいまいに修飾だけになっていた「行くも帰るも」「知るも知らぬも」などが、演算以前の英訳時点で(多くのAIは英語で演算し、日本語に戻して出力しています)、「行く者」「知る者」など対象を特定してしまうと、「あいまいさ」が消えて鑑賞の余地が著しく狭まってしまう。
生成AIこと大規模言語モデルは、文字で明確に書かれていない「あいまい」な文意をコントロールすることが苦手なのです。というよりほぼ100%不可能と言った方が正確かもしれません。