平和主義者どころではない?「日本を今一度洗濯したい」の本当の意味
また、薩摩藩と長州藩の仲をとりもったことに由来するのか、「龍馬は戦を好まない平和主義者だった」という誤解がある。
しかし、龍馬はどちらかというと過激な思想の持ち主であった。
例えば、龍馬の名言として有名な「日本を今一度洗濯したい」の言葉は、日本の大改革を決意したものとして、現在でも大胆に物事を変えるときに引用されることがあるが、前後を含めて読むと、印象が変わってくる。
この言葉は、1863(文久3)年に姉に宛てた手紙で登場する。
最初に「この手紙はこの上なく大事なことばかりなので、べちゃくちゃしゃべる連中に見せると『ほほう、ほほう』『いややのう』という反応になるのがせいぜいだから、決して見せてはいけないよ」と断っているだけあって、かなり荒っぽい主張を繰り広げている。
まず龍馬は「長州が6回も外国と戦っているが依然として不利な状況であり、しかも、長州と戦っている外国船を幕府が修理している」と憤りを見せながら、それは「幕府側の腹黒い役人が外国人と内通したことによるもの」と断じている。そして、次のように決意を述べた。
「このような悪い役人はかなりの勢力があり、大勢ではありますが、龍馬は二・三の大名と固く約束して同志を募り、朝廷もまず神の国を守るという大きな方針を立てて、江戸の同志、旗本・大名・その他と心を合わせながら、幕府の悪い役人たちを撃ち殺して、この日本を今一度洗濯しなければならないことを祈願する」
つまり龍馬は、外国の軍艦を助けている幕府への怒りから、役人を撃ち殺したいと述べており、それこそが「日本を洗濯」の具体的な中身だった。
これより10年前の1853(嘉永6)年、19歳のときにも龍馬は父への手紙で「異国人の首を討ち取って土佐に帰国いたします」とつづっており、当時は尊王攘夷思想が吹き荒れていたとはいえ、元来好戦的な性格だったことが分かる。
また、龍馬は「亀山社中」を組織した武器商人であり、長州が幕府に武力で抵抗できるように武器を手配したこともあれば、ライフル銃を買い込み、徳川慶喜を京都で襲撃しようとしたとする説もある。
戦いを好まないとする従来の龍馬のイメージとは違うものの、「役人たちを撃ち殺す」というのは、血の気の多い龍馬らしい言葉だといえるだろう。
英雄ゆえに誤解も多い坂本龍馬。このような点も踏まえて、映画『新解釈・幕末伝』を楽しんでほしい。
【参考文献】
『坂本竜馬関係文書 第一』(岩崎英重編、日本史籍協会)
『全書簡現代語訳 坂本龍馬からの手紙』(宮川禎一著、教育評論社)
『汗血千里の駒 坂本龍馬君之伝』(坂崎紫瀾著、林原純生校注、岩波文庫)
『坂本龍馬』(松浦玲著、岩波新書)
『「坂本龍馬」の誕生 船中八策と坂崎紫瀾』(知野文哉著、人文書院)



