坂本家の跡取りは誰か、親戚を巻き込んだ後継者騒動と龍馬の言い分
龍馬の兄・坂本権平は、1814(文化11)年生まれで、龍馬より21歳も年上にあたる。龍馬が17歳のとき、権平は病弱だった父から跡を継いだ。龍馬にとっては兄というよりも父親のような存在だったのだろう。脱藩後の龍馬に何かと資金援助したのも兄であり、龍馬は頭が上がらなかったようだ。
とりわけ龍馬が気にしていたのが、坂本家の後継者問題である。兄が継いでいるとはいえ、年の差を考えると、龍馬がその跡を継ぐのが自然だった。だが、そうなれば土佐を出て中央で活躍することなど到底できなくなる。
この手紙から5カ月後、龍馬は兄の妻の弟にあたる川原塚茂太郎に、次のような手紙を書いている。
「その話は先年から度々出ていることではありますが、兄権平が心配し、ついには腹を立ててしまったことは茂太郎兄さんもよくご承知のことでしょう」
「その話」とは、後継者問題のことである。兄の権平は思い通りにならないことに怒りを覚えるほど、なんとか後継者に龍馬を据えようと心を砕いていたのだ。龍馬がことさら気を遣うのも無理はないだろう。このあとには、龍馬が茂太郎の言葉をうまく引用しながら、自分の意思を懸命に伝える文章がつづられている。
「また以前から茂太郎のおっしゃっていた『土佐一国の中だけで学問すれば一国だけの論を出ないものだ。そうではなく世界に出てわたり歩けばそれだけ目を開き、自分で天から受けえた知を開かなければならない』というご持論は、今でも私の耳に残っております」
龍馬はそう力説して、なんとか自分を後継者候補から外してもらえるように、兄を外堀から埋めようとしている。
そしてここでも、「40歳」というキーワードが出てきている。
「また、私龍馬は四十歳になるまでは海軍の修行をしたいのですが、その時には兄上は六十歳にもなってしまうので、坂本家のことをうまく引き継いでいくには、今のうちから然るべききちんとした人を見立てて下さいとの文も出しました」
修行は40歳までと言いながらも、それまで待つことのないように、自分以外の養子をとってほしいと龍馬は提案していた。そして、きっちりとこう言い切っている。
「もとより天下国家の大事と比べてみれば、坂本家の後継者のことはかえり見る余裕はありません」
さすが旧来の価値観にとらわれなかった坂本龍馬──と言いたいところだが、龍馬はこの言葉を兄には直接言えず、親戚に熱弁することで、なんとか本人に伝えようとするのが精いっぱい。家のしがらみに縛られっ放しだったのである。