犬塚勉は1949年、川崎市に生まれた。

 わたしより2歳年下で、なにをするにもひとりを好んだという。絵は独学で、のちにする登山でも、基本的に単独行だった。

 略年譜にはこう書かれている。

26歳、東京学芸大学大学院卒、町田市の中学の美術教諭になる。
30歳(1980年)、多摩市の小学校の図工教師。本格的に登山を始める。

 犬塚の絵は、この頃を境に大きく変わっている。

徐々に登山にのめり込む

 かれは、それ以前の数年、スペインに「ザックひとつで遊学」し、主に人物画を描いていたようである。

 画風は現代的であり、どこか幻想的でもある。

 しかし徐々に登山にのめり込むようになる。北岳、穂高、槍ヶ岳、立山、八ヶ岳といった山に登ったようである。

 登山のかたわら、絵を描き、各展覧会に応募。独立展、神奈川県展、多摩秀作美術展などに入選。

 1988年、38歳のとき、多摩総合美術展大賞を受賞。

 しかし同年9月、「谷川連峰赤谷川本谷から平標山へ向かう途中、悪天候のため遭難。エビス大黒ノ頭にて力尽き永眠」。

 自然を描いたかれの絵は、それを見た多くの人が感じるように、アメリカン・リアリズムの精密画の巨匠アンドリュー・ワイエスを彷彿とさせる。

 奥様にお話を伺ったところ、勉氏はやはりワイエスが好きだったということだ。

 ワイエスは日常の人物や風景を描いた。犬塚は登山をするようになってからは、人物は描かなくなった。もっぱら自然を描いた。

 犬塚は「価値の最上位に自然を置く」という言葉を残している。

 その自然を描く画風が、ワイエスを思わせるのだ。

 わたしは躊躇なく「日本のワイエス」と呼びたい。こんな人がいるのである。