松永安左エ門(1967年12月、写真:共同通信社)
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 昭和20(1945)年8月15日の終戦の日から、今年で80年を迎える。戦後80年の節目に改めて、戦後の日本を復興に導いた偉人たちを取り上げたい。今回は戦後に電力の値上げに踏み切って「電力の鬼」と大バッシングを受けることになった松永安左エ門(1875─1971年)について、知られざるエピソードとともに、その波瀾万丈な生涯を偉人研究家の真山知幸氏が解説する。

築地本願寺に押し寄せた群衆、「電力の鬼、松永を殺せ」

 昭和26(1951)年から昭和29(1954)年の3年間にわたり、日本では電気料金が大幅に値上げされることになった。

 この計画が新聞やラジオで発表されると、庶民から大反発が起きたことはもちろん、経済団体もこぞって反対の姿勢を打ち出した。主婦連は署名活動をしながら、しゃもじを持ってデモ行進を展開。築地本願寺へと押し寄せた群集の手にはプラカードが見え、そこにはこう書かれていた。

「電力の鬼、松永を殺せ」

 松永とは、電力改革を推進した松永安左エ門(まつなが やすざえもん)のことである。電気料金の大幅値上げを仕掛けた張本人であり、彼の自宅には連日のように脅迫状が届けられた。

 だが、「殺せ」と言われるまでに憎まれても、松永は怯まなかった。

 なにしろ、松永にとって衝突など慣れっこだった。この値上げに踏み切るまでに彼は、老獪な抵抗勢力を相手取り、幾度となく大げんかを繰り広げてきた。加えて、庶民は単に実情を知らないだけに過ぎず、改革の意義はいつか伝わると確信していたのである。

 妥協を知らぬ頑固な男は「戦う経営者」として、決して自らの信念を曲げることはなかった。

 気に食わないやつは叩きのめす――。暴れん坊がゆえに、時には成功のレールから外れてしまうものの、時代に求められるかのごとく松永は何度も復活を遂げてきた。松永の人生は、まさに起死回生と一発逆転の連続だったといえる。

 そんな松永の原動力が育まれた幼少期からみていこう。