吉田茂元首相(右)とマッカーサー元帥(1954年11月、写真:AP/アフロ)
昭和20(1945)年8月15日の終戦の日から、今年で80年を迎えた。戦後80年の節目に改めて、戦後の日本を復興に導いた偉人たちを取り上げたい。本稿では戦後にGHQのダグラス・マッカーサーと渡り合い、日本を復興へと導いた内閣総理大臣の吉田茂(1878─1967年)について、幼少期のエピソードから外交官時代のアウトローぶり、また総理時代に発揮したリーダーシップについて、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。
こらえ性がなく学校を転々とした
吉田茂は、明治11(1878)年9月22日、土佐の自由党志士・竹内綱と妻・瀧子の五男として東京に生まれた。生前から横浜屈指の事業家・吉田健三のもとに養子に出されることが決まっていたという。
横浜市にある太田小学校を経て、明治22(1889)年に10歳で藤沢の寄宿制の私立中等学校「耕余義塾(こうよぎじゅく)」へと進学する。
健三と親しかった当時の神奈川県知事で、のちに衆議院議長となる中島信行からの勧めだった。教わった内容は漢学のみならず、数学、英語、理科、歴史、地理、法律と多岐にわたったという。のちに吉田は、孫の麻生太郎にこんなアドバイスをしている。
「わしは最初に行った漢学塾で多くのことを学んだ。特に歴史は若いうちにしっかり勉強しておくことだ」
私塾で5年ほど学んだことで洞察力も身につけたようだ。13歳のときには、「国家の礎、急務」と題した作文でこんなことを書いている。
「このごろの名士は政治狂いになって、産業を怠っている」
政治家は権力闘争に明け暮れるのではなく、経済を重視せよ、と説いている。あまりの早熟ぶりに周囲も期待したことだろう。
ところが、吉田はここから学校を転々とすることになる。16歳で東京・麻布にある日本中学に入学したのち、明治28(1895)年に高等商業学校に転学。ソロバンは性に合わないと2カ月で退学すると、正則尋常中学校に転入。さらに18歳で東京物理学校に入学するも、ここも長くは続かなかった。
翌年に学習院中等学科6年級に仮編入し、ようやく腰を落ちつけることとなった。


