膜タンパク質と結びつきやすい疎水性分子
なぜこのように「即効性」があるのかという問いは、同時に「どうしてヘロインの約50倍、モルヒネの約100倍、強力な麻薬なのか?」という問いと実は同じなのです。
以前の連載で新型コロナウイルス「スパイクタンパク質」の分子進化をご説明したときと同じく、分子から考えてみましょう。

フェンタニルの構造式を書いてみました(上の図)。パッと見ただけでも「亀の子」の形がいくつも目に入ってきます。
ベンゼン環、つまり「アブラ(油)」の性質が強いことが分かるでしょう。数字は分子量、分子の大きさ、重さの目安と思ってください。
アブラは細胞に結びつきやすいのです。
2020年、新型コロナウイルス関連で分子式を用いる解説をあちこちに書いた折にも同じ表現を取りましたが、油性ペンが指先につくと、なかなか落ちにくいですよね?
水性だと水で洗えばサッと落ちる。フェンタニルは「油性」と思ってください。
これに対して、例えば「モルヒネ」の構造式(リンク)を見ていただくと「ーOH」という部品が2つ突き出しているのが目に入ります。
これは、H2Oという水分子の部品の形をしているわけで、水酸基と呼ばれているのはご承知の通りです。
モルヒネは「親水性」を持つ分子、つまり「水性ペン」に近いと、あくまで比喩ですが、記しておきましょう。
人間を含め、ほぼすべての生物の細胞は「脂質二重層」と呼ばれる細胞膜の構造を持っています。
この「アブラの」膜を通過して、何者かが内部に入り込もうとする際には、「親水性」より「親油性」である方が有利になる。
これが「油性ペン」と「水性ペン」の違いの本質になります。
さて、モルヒネはケシ(Opium poppy)を原料として精製される「鎮痛剤」で、1804年に史上初めて、薬用植物から分離されたアルカロイド(窒素原子を含みアルカリ性を示す有機分子)です。
モルヒネの分子量は285、フェンタニルよりは軽い分子です。
この小さな分子が 「夢のように痛みを取り除いてくれる」ので、ギリシャ神話に登場する夢の司神モルペウスにちなんで命名されたものです。
フランス革命期に分離され、米南北戦争や普仏戦争の野戦病院で盛んに用いられ効果を発揮しましたが、同時にモルヒネ中毒患者を大量に生み出してしまいました。
そこで「依存性のない、モルヒネに代る万能鎮痛・咳止め薬」として、1898(明治31)年にドイツ・バイエル製薬から発売されたのが「ヘロイン(商標)」でした。
モルヒネを原料に合成され、物質名としては「ジアモルフィン」になります。
ヘロインの分子式をリンクで確認して、先どのモルヒネの構造と比較すると、2つくっ付いていた「水酸基(-OH)」が「COCH3」という部品に置き換わっていることが分かります。
さっきの表現を使えば、「水性」だったモルヒネが「油性」になったのが「ヘロイン」とういうわけです。
このCOCH3は「アセチル基」と呼ばれ、極性分子をアセチル化すると反応性が弱まることが一般的に知られています。
ヘロインの分子量は369、モルヒネより少し重いのは、水酸基よりアセチル基の方が重いからです。
重くても「油性」になれば細胞に入りやすくなりますが、19世紀ドイツの薬学者たちは「反応性の薄い万能のモルヒネ代用薬」を創ったつもりだったんですね。
ここまでは「有機化学」の知恵だったのです。
ところが実際には、モルヒネよりもはるかに細胞膜の脂質二重層を通り抜け、重篤な作用を細胞にもたらす、「油性に強化されたモルヒネ」になっていた・・・。
生化学、生物学、細胞のメカニズムに基づく理解が、モルヒネの創薬段階では不足していたわけです。
この「効きすぎるモルヒネ」は習慣性もすざまじかった。
19世紀末~20世紀初頭、ヘロインの悪弊は直ちに世に知られ、第1次世界大戦(1914~18)後、ドイツを筆頭に各国で医薬品から除外され、違法薬物として規制されることとなりました。