遊廓の揚代、岡場所の口留金
江戸の岡場所で代表的なのは深川遊里だろう。
深川花街の起源は、江戸時代初期にさかのぼり、富岡八幡宮門前に料理茶屋の開業が許可されたことで、八幡社を中心に繁盛し繁栄し、水茶屋女によって遊所に発展した。
茶屋は、もともとは路傍に見世を出して、旅人に茶を飲ませ休息させて料金を得るといった業態として始まり、現今の「喫茶店」の祖となるものだ。
そこに、様々な形態や専門性が加味され、待合茶屋、料理茶屋、遊び茶屋、色茶屋、案内茶屋等に分化。それらは旅籠屋との関連が緊密な関係にある。
深川の岡場所では、私娼を「子供」と称し、その置屋を「子供屋」と称した。
この「子供」のうちで茶屋へ呼ばれて売色するものを「呼出し妓」といい、呼出し妓を招いて遊ばせた茶屋を「呼出し茶屋」といった。
一方で、外には出さない見世付妓で、自家の客に内密で出した隠し女郎のことを「伏し玉妓」と称する。
幕府公認の吉原の遊女の枕席料金は「売り玉」。「揚代」、あるいは「枕金」という。
対して岡場所では、私娼・隠し売女の売色金を口留金(くちどめきん)といったのは、非官許であるため内密を意味するものであった。
芸者とは、もともとは芸だけで客席を勤めるものとして、遊女から分離独立した生業だった。
江戸幕府将軍・徳川家重、徳川家治の時代、宝暦(1751-64年)頃には、江戸市中には町芸者はまだ存在せず、「踊子」と称せられた女が宴席に招かれて、あたかも芸者のような役割をしていた。
宝暦の終わり(1763年頃)、元吉原芳町新道(現在の日本橋人形町周辺)に、「菊弥」という市中で有名な踊り子がいた。菊弥は諸所の御座敷に招かれるなど、非常に評判であった。
深川八幡前で菊弥は遊芸の師匠となり茶屋を開くと再び評判となった。
すると他の土地から出奔した芸者たちが、深川に集まり居を構えた。深川遊里は、踊り子の系統を継ぐ町芸者たちによって有名になり、町民の社交場として発展を遂げた。
「町芸者」の異名に「猫」の一称がある。
芸者を「絃者」というように、その商売道具の三味線が猫の皮で張られるからとの説がある一方で、町芸者は売色を予期して発生したもので、遊客と同衾する「寝子」から「猫」に転じたともいわれている。
深川が江戸随一の町芸者の遊里として存在感を示せたのは、吉原芸者に対して、舞や踊りがより自由奔放であり、遊興費も廉価など、大衆的に遊べたことによる。
辰巳芸者とは
深川は江戸城の辰巳の方向、つまり東南だったため、深川芸者は辰巳芸者と称された。
柴田錬三郎の時代小説、『御家人斬九郎』は、松平斬九郎(渡辺謙)が「かたてわざ」と称する裏の稼業で活躍する時代劇。その斬九郎の馴染の辰巳芸者が江戸っ子気質の蔦吉(若村麻由美)である。
辰巳芸者の特徴を、『嬉遊笑覧』によれば「豊後節流行して羽織芸者起る」とあり、「薄化粧で身なりは地味な鼠色系統」。
「冬でも足袋を履かず、素足のままの風俗も男装であった」とあり、吉原やその他の芸者と違い、勇みはだで、威勢と気っ風の良さが売りで、男装に近い装い。
「粋と張り、意気地」を看板とし、「だて」を専らとしていた。
女郎の男っぽい喋り方は「辰巳言葉」といわれ、吉原の「ありんす言葉」に対し、深川は「ござんす言葉」を売り物とした。
源氏名も吉原遊女にありがちな、鈴乃、飛鳥、音羽といった女性らしい名前ではなく、辰巳芸者は蔦吉、鶴次、美代吉、音吉、勘助など、男名を名乗っている。