1.明石謀略
(1)「兵は詭道なり」
2023年8月17日、防衛省は、「認知領域を含む情報戦への対応」に関する考え方や今後の取り組みについて公表した。
冒頭に次のような記述がある。
「近年、国際社会では、他国国内の混乱を生起することや、自国の評判を高め、他国の評判を貶めることなどを目的として、偽情報の拡散をはじめとする情報戦に重点が置かれています」
「わが国として、世論操作や偽情報の拡散を行うことは決してありませんが、他国による偽情報への対策など、情報戦対応を万全にする必要があります」
筆者は、この記述の中の「わが国として、世論操作や偽情報の拡散を行うことは決してない」という文章に驚愕した。
すなわち、日本は情報戦を放棄したことになるが、自衛隊は本当に情報戦を放棄したのであろうか。
防衛省・自衛隊は、曲がりなりにも軍隊である。決してNGOではない。
孫子の兵法に「兵は詭道なり」という言葉がある。簡単に言えば「戦争は騙し合い」ということである。
現代の日本は平和呆けのような状態であり、人を騙すのは道義にもとるとか倫理に反するなどの意見もある。
しかし、命のやり取りをするのが戦場であり、戦場は平時の道義や倫理の枠の外にあると筆者は考えている。
自衛隊が守らなければならないのは国際人道法である。
すなわち、我に向かってくる敵は手加減せずに排撃するが、投降するために両手を挙げて塹壕から出てきた兵士は決して撃ってはいけないのである。
さて、偽情報の拡散とは、陽動作戦や欺瞞作戦で使用される手法である。陽動作戦や欺瞞作戦は正当かつ効果的な作戦行動である。
ウクライナ戦争における一例を挙げる。
2022年9月6日に開始されたウクライナ軍の反転攻勢により、ウクライナ軍は、5日間でハルキウ州のほぼすべてを奪還した。
ロシア軍は戦車や装甲車、武器、弾薬を捨てて遁走した。
ウクライナ軍は8月下旬、南部へルソンへの大規模反撃作戦があるように見せかけ、東部のロシア軍の南部への移動を誘い、手薄となった東部に奇襲をかけ一気に東部を制圧した。
いわゆる陽動作戦である。
その際、ウクライナ軍のハルキウ付近の部隊が大規模な作戦を準備しているという情報がロシア側に漏れないように徹底的に情報統制した。
同時に、地元民を装っているロシアのスパイに「ウクライナ軍は攻撃の準備ができていない」という偽情報をつかませてロシア側に伝えさせていたという。
この事例は、偽情報の拡散が軍事作戦において極めて有効であることを示している。
ところで、クラウゼヴィッツの戦争論に「戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならない」という有名な一節がある。
すなわち政治の世界も「詭道なり」ということになる。
次に、政治の世界の「詭道」、すなわちインテリジェンスについて述べてみたい。
(2)米国のインテリジェンス活動
本項は、インテリジェンスの権威マーク・M・ローエンタール氏の著書『インテリジェンス(機密から政策へ)』を参考にしている。
各国はインテリジェンスの有用性を認め、インテリジェンス機関を国家の行政機能の一つとして保持している。
そして、国外におけるインテリジェンス活動、すなわちスパイ活動を公然・非公然に行っていることは世界の常識である。
しかし、日本には真の意味のインテリジェンス機関が存在していない。
さて、インテリジェンスは、収集、分析、秘密工作、カウンターインテリジェンスという4分野の活動に大別される。以下、秘密工作について述べる
ア.秘密工作の定義
秘密工作は(米国の)国家安全保障法で、「国外の政治的、経済的または軍事的条件に影響を与え、米国政府の役割が公に看守されたり認知されたりすることが意図されていない単一または複数の米国政府の活動」と定義されている。
これらの活動は秘密であるが、政策目標を達成する一つの手段として行われる。
こうした工作はインテリジェンス機関のイニシアティブで進められるものではないし、進められるべきでもない。政策決定者が、目的を達成する最良の手段だと決断した時に行われる。
イ.秘密工作の範囲
秘密工作は様々なタイプの活動を含む。下図を参照されたい。
図1 秘密工作の梯子(はしご)

(ア)プロパガンダ
特定の政治的結果を念頭に情報を流布する。
(イ)政治活動
プロパガンダより一段上の方法だが、一緒に使われることもある。政治活動により、インテリジェンス活動は対象国の政治過程により直接的に介入することができる。(例)選挙支援のために海外の政党に資金を提供する。
(ウ)経済活動
民主的であれ全体的であれ、すべての政治指導者はいずれも経済状況を気にかける。(例)偽造通貨を流通させて通貨制度への信頼を破壊する。
(エ)クーデター
すなわち政府転覆は、直接的なものにせよ代理を使うにせよ、秘密活動の梯子をさらに上がった段階にする。
クーデターは、プロパガンダ、政治活動、経済不安といった多くの技法の集積である。
(オ)準軍事作戦
準軍事作戦は、最も大規模で暴力的かつ危険な秘密工作であり、敵に対する直接攻撃のため大規模な武装組織への武器の提供や訓練を行う。
戦闘部隊に自国の軍事要員を使用することはない。それは戦争になってしまう。
(3)日露戦争での明石謀略
本項は、大橋武夫解説『統帥綱領』建帛社(昭和47年2月10日)などを参考にしている。
日露開戦必至とみられた明治34年(1901)、明石元二郎陸軍中佐(1903年大佐に昇格)は田村怡与造参謀次長の密命を受けて欧州に渡った。
明治37年(1904年)、日露戦争が開戦すると駐ロシア公使館は中立国スウェーデンのストックホルムに移り、明石大佐は以後この地を本拠として活動した。
日露戦争開戦直前の1月、参謀本部次長・児玉源太郎は開戦後もロシア国内の情況を把握するため、明石大佐に対し「ペテルブルク、モスクワ、オデッサに非ロシア人の外国人を情報提供者として2人ずつ配置」するよう指令電報を発した。
さらに明石大佐は日露開戦と同時に参謀本部直属の欧州駐在参謀という臨時職に就いた。
明石大佐はロシア支配下にある国や地域の反ロシア運動を支援し、またロシア国内の反政府勢力と連絡を取ってロシアを内側から揺さぶるため、様々な抵抗運動組織と連絡を取り、資金や銃火器を渡し、デモやストライキ、鉄道破壊工作などのサボタージュを展開していった。
鉄道破壊工作などは失敗するものの、デモ・ストライキは先鋭化し、ロシア軍はその鎮圧のために一定の兵力を割かねばならず、極東へ派遣しにくい状況が作られた。
明石大佐の工作の目的は、ロシア国内の反乱分子の糾合や、革命政党エスエル(社会革命党)を率いるエヴノ・アゼフなどへの資金援助を通じ、ロシア国内の反戦、反政府運動の火に油を注ぎ、ロシアの対日戦争継続の意図を挫折させようとしたものである。
日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に貢献することを意図した明石大佐の活動は、後に、明石自身が著した『落花流水』などを通じて巷にも日本陸軍最大の謀略戦と称えられるようになった。
この明石工作に感嘆したのは、当時のドイツ皇帝のウイルヘルム2世で、「明石一人で、大山満州軍20万に匹敵する戦果を上げた」と言い、10年後に起きた第1次世界大戦ではこの手を真似て、ついに帝政ロシアを崩壊させている。
明石工作は、理想的に行われて成功した謀略のモデルケースである。
そして思想的に大衆を動員し、組織的であった点に特徴があり、そのまま現代に通用するものである。
日露戦争中、明石大佐は一人で巨額の工作資金を消費した。
それは当時の国家予算約2億3000万円のうち100万円(今の価値では400億円以上)ほどであったが、参謀総長・山縣有朋、参謀次長の長岡外史らの決断により参謀本部から支給され、ロシア革命支援工作などにも利用された。
(4)筆者コメント
軍事評論家江畑謙介氏は、その著書『情報と国家』の中で、次のように述べている。
「誰でも情報は大切だというのだが、多くの場合“インフォメーション”と“インテリジェンス”とを混同している」
「これは、これらの英語に対する適訳を見出せていない日本語の貧弱さに理由の一端があると同時に、その日本語を使用している日本人の文化において、情報の大切さが本当に理解されていない証左であろう」
いまだ、日本はインテリジェンスが定義できていない。
かつて衆議院議員・鈴木宗男氏が、インテリジェンスの定義について国会質問したことがある。
政府は、「インテリジェンスとは、一般に知能、理知、英知、知性、理解力、情報、知的に加工・集約された情報等を意味するものと承知している」と回答した(出典:政府答弁書2006年3月28日)。
ちなみに、旧日本陸軍では、裏面的手段による智能的策謀であって、国家の実施するものを、武力戦や外交戦、経済戦等の表面的手段に対応し「秘密戦」と称していた。
秘密戦の手段は、謀略、諜報、宣伝の3者からなり、また、対手国の秘密戦から防衛する活動を防諜と称した。
旧軍の秘密戦と米国のインテリジェンスを比較して見ると、諜報に相当するのが収集・分析で、謀略・宣伝に相当するのが秘密工作で、防諜に相当するのがカウンターインテリジェンスである。
繰り返しになるが、各国はインテリジェンスの有用性を認め、インテリジェンス機関を国家の行政機能の一つとして保持している。
元内閣情報調査室長の大森義夫氏は、その著書『日本のインテリジェンス機関』の中で、次のように述べている。
「インテリジェンスは毒である。悲惨な国際テロを防止するためであっても、テロ容疑者の周辺にインテリジェンスの布石を打つことは厳密に言えば人権の侵害を伴う」
「しかし、これは社会の安全を守るために必要な“毒”である」
日本も、米国のCIA(中央情報局)、ロシアのFSB(旧KGB)、イスラエルのモサドのようなインテリジェンス機関の創設を真剣に検討すべきではないであろうか。