法隆寺1330年の伝統に学ぶ
607年に創建された「元祖法隆寺」は「若草伽藍」と呼ばれ、約60年後の670(天智天皇9)年に消失したと考えられています。
その後、持統7(693)年に法要の記録があることから、この頃までには現在の「金堂」が再建されていると考えられ、私たちが今目にする「法隆寺」(西院)は、幾多の修復を経ながらも、1300年この方、ほぼ同様の姿をとどめていると考えられます。

内部の赤い「丹塗り」の柱を確認してみると、確かに筋目の良い心材、柾目材が直角に組み上げられているのが分かります。

どこまでが正確に「飛鳥の木材」か詳細は分かりませんが、1350年ほど前に切り出された材木が、21世紀の今日も、仮に一部であっても五重塔や金堂を支えている。
それだけでも素晴らしい、あるいは凄まじいことではありませんか。
法定年限22年とか、7年で劣化して使い物にならないとか、そういう話では全くない。ここに、木造建築の原点、かつ頂点があると指摘せねばなりません。
「雨ざらし」への対策

「金堂」の隣に建っている「五重塔」ですが、写真をよく見ると、実は屋根が1、2、3、4、5・・・6つあることに気が付きます。
では「六重の塔」なのか?
梵語で言うところの「きゃ・か・ら・ば・あ 佉訶囉嚩阿」、森羅万象を表す「地・水・火・風・空」を象徴する「五重」のストゥーパですから、六重という話にはならない。
庇として設けられている最下層の屋根は、実はハダカ木の板張りになっています。実際に見てみましょう。

改めてよく見てみると、「金堂」にも同様の、裸木の板張で庇が設けられているのが分かりますが、顕著に傷んでいます。

こうした部材は改修のたびに総取換えされると思われ、現在の板がいつの時代の材木かは、きちんと調べてみないと分かりません。
ただ、「雨ざらし」にすれば木材は痛む、という当たり前の事実を、大正昭和期の大工さんはもとより、鎌倉・室町時代の、あるいは奈良・平安時代の、飛鳥・白鳳時代の宮大工も知悉していたこと、これは間違いありません。
なぜと言って、その証拠がすぐ上に載っているのだから。
「五重塔」の5層の屋根も「金堂」伽藍の天井も、もれなく「屋根瓦」で保護されているではありませんか。