なぜ『美智子さま』は連載中止に追い込まれたのか

河西:作者は小山いと子氏で、綿密な取材に基づいて取材を執筆するタイプの小説家でした。『美智子さま』の内容もかなりノンフィクションに近いものであったと考えられます。加えて、小山氏は皇室に対しては肯定的な立場であり、『美智子さま』も初めて民間から皇室に入った皇太子妃を応援するという内容でした。

 ただ、そういった内容の小説は悪役がいなければ成立しません。元皇族など守旧派を悪役のような描き方をしたこと。おそらくですがそうして悪く書かれた側が宮内庁に苦言を呈するようなことがあったようです。

 宮内庁としては「守旧派からクレームが入った」とはとても言えません。それでも、宮内庁は1963年に小説の発行元である平凡出版に『美智子さま』の内容が「興味本位で、世間に誤った印象を与え、好ましくない」として連載を中止するよう求め、平凡出版もその要望を受け入れました。

 象徴天皇制に対して好意的な内容であっても、小説の連載が中止に追い込まれたのです。

 1960年代前半の皇室とメディアの関係をまとめると、まず皇室や天皇制を批判する『風流夢譚』が批判に晒され、次に中立的な内容であった雑誌『思想の科学』の「天皇制特集号」の発刊が中止を余儀なくされました。そして、天皇制を肯定的に描いた小説ですら、連載中止となったという流れです。

 この流れを受けて、テレビや週刊誌も含めた報道機関の間には、皇室報道は「差し障りのない内容で」行うという風潮が生まれました。

──差し障りのない内容であっても、皇室関連のコンテンツには一定のニーズがあったのでしょうか。

「皇太子はパ・リーグだ」の真意

河西:1950年代頃には、女性週刊誌が多く創刊されました。1960年代に入ると、ミッチー・ブームはひと段落していましたが、女性週刊誌は美智子さまと同世代の女性をターゲットに、皇太子一家を理想的な「家庭」として描くようになりました。

 消費的だった皇室報道が、皇太子や美智子さまの「人間性」や「家庭」にフォーカスした内容に軸足を移した、というイメージです。

──そういった報道に対して批判的な意見はあったのですか。

河西:少し異なる方向からの批判はありました。それが、皇太子に対する「権威が足りていない」とする報道です。「人間性」では物足りないという意見ですね。

 30代、40代と年齢を重ねるにつれ、皇太子には「フレッシュさ」よりも、将来の象徴天皇としての「威厳」が求められるようになりました。当時は「皇太子はパ・リーグだ」などと揶揄されていました。

 かつての日本のプロ野球はセ・リーグが絶大な人気を誇っていました。パ・リーグは実力はあるが人気はない。皇太子をパ・リーグになぞらえていたのです。

 ただ、それも、現在のような一方的なバッシングとは異なり、「実力はある」と一定の評価をしつつも意見を述べるというやり方でした。