営業運転の最終日を迎え、熊本市内を走行するJR九州の観光列車「SL人吉」営業運転の最終日を迎え、熊本市内を走行するJR九州の観光列車「SL人吉」(2024年3月23日、写真:共同通信社)

 戦後の鉄道業界では、エネルギー革命の影響によって動力の近代化が進められた。それまでの鉄道は石炭を燃料とするSL(蒸気機関車)がけん引する列車が一般的だったが、動力の近代化によってディーゼル車・電車へ置き換えられた。こうした取り組みにより、各地で運行されていたSLは昭和40年代から50年代にかけて一斉に姿を消していった。2025年は「昭和100年」。そんな節目の年を迎えるに当たり、昭和期にわが国の鉄道の主力を担っていたSLの現在地をフリーランスライターの小川裕夫氏が解説する。

「石炭から石油へ」というエネルギー革命の国策

 2025年は「昭和100年」という節目の年。戦前から昭和30年代の高度経済成長期まで、わが国の鉄道は全国各地に路線網を広げ、運転本数も増加の一途だった。そんな鉄道黄金期において、もっとも大きな変化のひとつが動力の近代化だ。

 戦後、政府はエネルギー資源の有効活用を掲げて脱石炭に取り組み始めた。そうした政府の方針を受け、国鉄(日本国有鉄道)も石炭を燃料とするSLから脱却することを求められた。なぜなら全国に路線網を有していた国鉄は、国内で採掘される石炭の30%を消費していると推計されていたからだ。

 国鉄が石炭を大量に消費するので、各地の工場は燃料の調達に苦労し、操業もままならない状況だった。国鉄が消費する石炭量を削減できれば、その余剰分を各地の工場へと回すことができる。それは日本の工業生産力を向上させることにつながり、ひいては日本経済を発展させることができる。

 そうした考えに基づき、国有鉄道審議会電化委員会は1949年に「電化5か年計画」を発表。同計画は約3400kmにも及ぶ国鉄の路線を5年間で電化する内容だった。

 そんな壮大な計画が打ち出されたものの、実際に電化は遅々として進まなかった。1955年に国鉄はスケールダウンした計画を新たに策定したが、その電化計画も思うように進まなかった。

 結局、国鉄は1958年に動力近代化調査委員会を発足させて脱石炭・電化推進をようやく本格化させる。動力近代化調査委員会は国鉄が保有していた約4000両のSLを機関車や電車へと置き換える方針を打ち出していた。

 4000両ものSLを置き換えることは誰の目にも困難であることは明らかだったが、石炭から石油へというエネルギー革命は鉄道だけではなく国全体で進められていた“国策”だったこともあり、国鉄は政府の方針に則って粛々と計画を遂行した。

 国全体で脱石炭が取り組まれた背景には、石炭がエネルギー効率の悪い燃料だったことが理由にある。鉄道を例にすると、SLのエネルギー効率は5~7%しかない。一方、電気機関車のエネルギー効率は約30%で、電車はそれ以上のパフォーマンスを発揮できる。エネルギー効率で比較すれば電化は必然だった。

 ただし、電気機関車・電車を走らせるには車両を置き換えるだけではなく、送電線・変電所などの地上設備も必要になる。それらの設備を整えるには莫大な費用と時間がかかるため、国鉄は運行本数の多い主要幹線から優先的に電化を進めていった。

 電化をするほど重要ではない路線に対しては、ディーゼル車を導入してSLからの転換を図った。こうしてSLは次第に活躍の場を失っていった。そして、国鉄は1975年に動力近代化をほぼ達成し、翌年にSLを全廃する。