現役時代に渡米してルーズベルト大統領と会見した常陸山
常陸山谷右衛門(横綱)
「常陸の前に常陸なく、常陸のあとに常陸なし」とまで言われ、強さも人物も力士の理想と称賛された。引退後の貢献度も抜群で“角聖”とも呼ばれた古今独歩の大横綱である。
常陸山は明治7年(1874)1月19日に茨城県水戸市城東で生まれた。生家の市毛家は代々水戸藩に弓一筋で仕えた士族の家柄。怪力ぶりを見た叔父の勧めで中学を中退し、16歳で角界入門。トラブルから1度脱走して名古屋相撲、次いで大阪相撲で活躍する。
明治30年4月に東京に帰参すると、32年1月場所入幕、34年5月には大関に昇進し、36年5月場所後にライバル2代目梅ヶ谷とともに横綱を免許された。相撲界は空前の活況を呈し、この梅常陸の人気が、42年6月の旧両国国技館開館につながったと言っても過言ではない。
色白で彫りの深いマスクは、当時“異人さん”とも呼ばれ、女性とのロマンスも桁外れで認知した子供も数多くいたという。
174cm、146kg。相手の声で常に受けて立ち、十分に取らせておいてから振り飛ばすような豪快な取り口。それでもほとんど取りこぼすことはなく、約16年間の土俵生活で黒星はわずか15個。
しかし強いだけではなく、人間的にも破格のスケールを誇った。常陸山の交友関係は政財界にも及び、現役だった明治40年には渡米して時の大統領ルーズベルトとの会見を実現。裸の大使としての先鞭をつけた。
引退後は年寄出羽海として大錦、栃木山、常ノ花の3横綱を始め数多くの名力士を育成し、一代で角界一の大部屋を築いた。また、取締を務め、力士の品位を高めて生活向上を図るなど、相撲界の近代化に大きく貢献した。
2代目朝潮太郎(大関)
朝潮は明治12年(1879)4月19日に愛媛県西条市に生まれた。長曾我部家に仕えた武士の家系で、20歳の頃には体重の3倍近い荷物を担ぐ怪力ぶりが話題となる。
明治34年に角界入りを決意し、5月場所に初土俵を踏んだ。40年1月場所に新入幕を果たすと、関脇時代の大正3年(1914)6月場所で、無敵横綱太刀山と大相撲を演じ、同体預かりとなる。この相撲が評価されて場所後に大関に昇進した。
176cm、113kg。右を差せば無類の強みを発揮し「右差し五万石」と謳われた。古武士を思わせる風貌に豪放磊落な性格で、「最も男性的な大関」との声も多かった。
当時は東西制*1で、強豪ぞろいの出羽海方を相手に健闘。大横綱栃木山に対して3勝1敗の戦績を残している。
現役時代から年寄高砂の二枚鑑札*2になり、引退後は高砂専務となり横綱男女ノ川・前田山ら多くの弟子を育てた。
角界を離れたあとも悠々自適な生活を送り、82歳の長寿を保った。
*1:力士が東と西に分かれ団体優勝を争う制度
*2:現役の力士または行司が年寄を兼務すること
鳳谷五郎(横綱)
鳳は明治20年(1887)4月3日、千葉県印西市に生まれた。父は東京相撲で三段目まで取り、田舎に戻って米穀商にかたわら草相撲の大関として鳴らした。そんな父の影響から15歳だった明治34年に、同郷の先輩大関鳳凰(のちの宮城山)の門をたたいた。しかし、当時の入門規定の体重16貫(約60kg)に満たず、半年後にお情けで合格させてもらった。
明治35年1月に初土俵を踏んだが、痩身の上に非力だったため、“人の5倍”とまで言われるほどの猛稽古に励んだ。そのため前髪がすり切れ、ささらのようになったが、歴代横綱中最も美男と言われる顔にマッチして“久松(歌舞伎・浄瑠璃の演目に登場する美男)”というあだ名がついた。
明治42年1月場所に新入幕、大正2年(1913)1月場所に大関昇進と順調に出世した。
174cm、113kg。土俵いっぱいを使った激しい動きが持ち味。離れれば突っ張りからの肩透かし、得意の左を差すと、“鳳のケンケン”と言われた強靭な足腰を利した掛け投げが得意だった。容姿端麗だった上、颯爽とした相撲ぶりで、女性ファンを中心に大変な人気を集めた。
大正4年1月に10戦全勝で2度目の優勝を果たすと、場所後、横綱に昇進。吉田司家は当初難色を示したが、「鳳人気」に押されてしぶしぶ承諾した。
横綱昇進後は受ける相撲を心掛けすぎるあまり、持ち味が半減。その上、糖尿病に苦しみ、休場がちになるなど精彩を欠いた。