美男力士・両国は新入幕で優勝
両国勇治郎(関脇)
作家・田村俊子とのロマンスが当時大変な話題になった美男力士。令和6年(2024)の3月場所に尊富士が新入幕で初優勝。110年ぶりの快挙と騒がれたが、その110年前の新入幕Vを果たしたのが両国だった。
両国は明治25年(1892)3月18日に、秋田県仙北郡に生まれた。秋田県に入間川一行が巡業に訪れた際に見いだされ、そのまま入門。旧両国国技館が開館した42年6月場所に初土俵を踏んだ。当時としても決して大きくない体だったが、筋肉質の体に強靭な足腰を誇り、勝負度胸も抜群だった。
トントン拍子に出世して大正3年(1914)5月場所に新入幕を果たすと、9勝1休みの好成績を挙げ、幕内デビュー場所で優勝という偉業を成し遂げた。色白で端正なマスクとあって一躍人気力士となる。
「新入幕のあざやかな勝ちっぷりと、まれにみる美貌に一目ぼれしたのが田村俊子。両国のことが寝ても覚めても忘れられず『両国という角力恋して春残し』と詠む始末。人をかいして新橋の料亭で遭ったところ女傑の俊子さんも顔を赤らめて一言も出せず、指で畳に『の』の字を書いていたという」(国立浪史「近世関脇物語」)。
173cm、90kg。左四つからの投げ技や足癖のスピーディーな連続攻撃が持ち味。酒が入れば芸者衆に「あすは櫓投げだ」「つかみ投げをやるから見にこい」と豪語し、実際に公言通りの技を本場所で繰り出した。しかし大技を狙いすぎて取りこぼすことも多く、稽古場では横綱・大関を圧倒しながら、関脇止まりに終わった。
常ノ花寛市(横綱)
目鼻立ちのくっきりした歌舞伎役者のような美男。技も華麗で、大正末から昭和初期にかけての相撲界を支えた。
明治29年(1896)11月23日に岡山市に生まれた。両親とも大柄で、常ノ花も生まれた時の体重が5kgもあった。町の子供相撲で活躍し、怪童として知られていた。
子供の頃から常陸山の大ファンで、12歳だった明治42年8月に、常陸山一行が岡山巡業に来た際、弟子入りを決意。翌43年1月場所に初土俵を踏んだ。
大変な負けず嫌いで、大正6年(1917)5月場所に20歳で新入幕とかなりのスピード出世だったが、同部屋の強豪力士栃木山、大錦、九州山らに追いつけとさらに猛稽古を重ねた。
大正9年1月場所に大関となり、13年1月場所に8勝2敗の好成績を挙げると場所後、横綱に昇進した。
178cm、112kg。やや非力ながら、突っ張りから右を差しての上手投げ、櫓投げ、足技と派手な相撲で人気を集めた。大錦、栃木山が余力持って引退し、また昭和初期に場所数が増えたというラッキーな面はあったが、優勝10回は名横綱といっていいだろう。
年寄藤島を襲名した引退後は、現役時代以上の功績を残した。昭和7年(1932)、相撲改革を訴えて多くの力士が脱退した「春秋園事件」では、事件収拾に手腕を発揮。そうした実績が認められ、19年には力士出身者初の理事長に就任した。
昭和24年に先代(元小結両国)の死去にともない出羽海を襲名。角界が壊滅状態になった戦後の混乱期にも、蔵前国技館の建設や場所数の増加など相撲協会運営の基盤を作った。
昭和32年に財団法人のあり方について国会問題まで発展すると、割腹自殺を図ったが、一命をとりとめた。その後は理事長の座を時津風(元横綱双葉山)に譲り、相談役に退いた。
昭和35年11月28日に64歳で、波乱に富んだ人生に幕を閉じた。