ナイーブな楽観主義とナイーブな悲観主義
もちろん、次に起きることについて不安を抱く理由は多々ある。
もしイランの体制が地域の代理勢力の盾を失えば、核兵器で自国を武装するための取り組みの加速など、国の安全を守る別の方法を模索するかもしれない。
戦闘が再燃すればシリアが破綻国家と化し、新たな難民流出に火がつくかもしれない。HTSが国の一部地域をテロリストの隠れ家に変える可能性もある。
だが、HTSがすでに支配していたシリアの一部地域で同組織と付き合った西側の一部非政府組織(NGO)が見るところ、HTSはしっかり組織化されており、実利的で、外の世界と向き合う用意がある。
こうしたNGOは、HTSが装いを新たにしたアルカイダになると決めつけてはならないとクギを刺す。
アサドの失脚に対する西側の慎重な反応は、2011年のアラブの春の希望が潰えたことを反映している。
あの当時、シリアが激しい内戦に陥ったことは今も、中東での専制的な体制の崩壊に対するナイーブな楽観主義に警鐘を鳴らす人たちが引き合いに出す教訓だ。
だが、世の中にはナイーブな悲観主義なるものも存在する。
アサドは権力をしっかり掌握している、しかもシリア人と地域全体は果てしない暴力的抑圧よりましなものを期待できないと考えることは、ただ冷笑的なだけではなく、分析的にも間違っていた。
今年に入ってダマスカスに大使館を再びオープンしたサウジアラビアは、アサドの権力掌握が崩れようとしていたまさにその時にアサドと折り合いをつけることにした政府の代表例だ。
アサド政権の権力掌握がいかに脆いかが露わになるには、レバノンでの戦争からの余波が必要だった。
アサド後のシリアの未来について理解できる不安が渦巻くなかでは、単純な真実を見失いがちだ。
その他の暴力的な体制と手を組んでいる暴力的な体制の崩壊は良いことだ。
(文中敬称略)