社会人で感じた喜びと現実

「東大ドラフト候補」は、指名を受けても、指名漏れしても、それなりのドキュメンタリーの企画として成立する。テレビの制作スタッフが松岡への密着を続けていた。かくいう筆者も、その中の一人だった。ところが、肝心の主役がストーリーラインから降りてしまったため、番組の内容も当初とは違うものになってしまったのだ。

 社会人野球には、プロへのステップの場所という一面があるのは事実だ。多くの選手が、入社した時には、個人として成績を残してプロ入りすることを目指している。だから25歳を過ぎてドラフト指名の可能性がなくなると、まだ余力を残しながら辞めてしまう選手もいる。

 だが、それでは独立リーグとの棲み分けがなくなってしまう。本来社会人野球には、チームとして企業の看板を背負って戦う「大人の真剣な野球」という存在意義があり、それが魅力でもあるはずだ。松岡のように、それを追いかけたい選手もいるのだ。

 松岡が入社した昨年の都市対抗、明治安田は予選を無敗で勝ち上がり、4年ぶりとなる東京ドームの本大会への出場を決めた。代表決定戦の勝利の瞬間は、夢中でマウンド付近にできたチームメイトの歓喜の輪に向かってダッシュした。高校、大学と公式戦の勝利は片手で数えられる程度。それだけに、勝つことの喜びは格別だった。

 予選、本大会とも試合への出場機会はなかった。チームに捕手は3人。いちばん若く実績のない松岡は、試合中のブルペンで登板を控えた投手のボールを受けることが一つの役割だった。いわば裏方のような仕事だが、自己犠牲や、チームに貢献することへのモチベーションが落ちることはなかった。

 むしろ一つ一つの勝利に強い充実感があった。チーム全体にそうした共通認識がある。それが試合の結果に繋がっていく。大学時代に主将として作りたかったチームの姿であり、目指していたものが間違っていなかったことを実感できる経験だった。

 2年目の今季も、明治安田は予選を勝ち抜き、2年連続の本大会出場を果たす。

 東京ドームでの初戦の相手はヤマハ。今大会では優勝候補に挙げられていた。松岡にとっては、かつての憧れのチーム。これまでも地方大会などで対戦する機会があり、試合前のグラウンドでヤマハの選手たちに挨拶に行くと、「あぁー、伊佐地からお前のことは聞いていたよ。頑張れよ」と暖かく声を掛けられていた。

 難敵のヤマハを撃破した明治安田は勢いに乗り、1982年以来42年ぶりとなるベスト8進出を果たしている。

三菱重工Westには元阪神タイガースの北條も登場。トヨタ自動車戦では2ランホームランを放った(写真:共同通信社)三菱重工Westには元阪神タイガースの北條も登場。トヨタ自動車戦では2ランホームランを放った(写真:共同通信社)

 ただ、終わってみれば今年も予選、本大会とも試合出場はなし。この2年間、地方大会などではマスクを被ることもあるが、本番といえる都市対抗では、まだ飯田や井澤のように試合に出場したことがない。昨年は「東京ドームだ。すげぇ」と無邪気に喜んでいたが、今年はどこか複雑な感情があった。

「もちろん今も純粋に嬉しいんですけど、さすがにちょっと……。僕も試合に出たいですね。1打席でも、1球でもと思っていたから、すごくもどかしいです。自分のことよりチームが勝てたらいいという気持ちはありますが、試合に出ている人たちに、いいなぁ、楽しそうだなぁという感情が、心のどこかに出てきてしまうんです」

 松岡はそんな本音を吐露した。松岡の恩師であり、社会人野球の先輩でもある伊佐地がこんな話をしてくれた。

「社会人野球って外から見たら結構楽しそうに見えるんですけど、やっている選手は、実はすごく苦しいんです。それは試合に出ているレギュラーも、松岡のように試合には出ない選手にも、違った苦しさがあります」
「どんなに頑張っていても、試合に出られない選手っているんです。苦しいと思います。でも、試合に出ていなくても、必ず一人一人にやるべきことがあるんです。それを必死にやることで、チームにとって欠かすことができない選手になって、いざ試合に使われた時の1本のヒットに繋がっていく。僕自身もそう信じてやっていたんですけどね」

 憧れから自己実現へ。喜びと悔しさの両方を噛みしめながら、松岡の2度目の都市対抗が終わった。「日本選手権の予選も始まるんで、ここからまたギアを上げて、一生懸命練習します」と前向きに言った。

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【矢崎良一(やざきりょういち)】
1966年山梨県生まれ。出版社勤務を経てフリーランスのライターに。野球を中心に数多くのスポーツノンフィクション作品を発表。細かなリサーチと“現場主義"に定評がある。著書に『元・巨人』(ザ・マサダ)、『松坂世代』(河出書房新社)、『遊撃手論』(PHP研究所)、『PL学園最強世代 あるキャッチャーの人生を追って』(講談社)など。2020年8月に最新作『松坂世代、それから』(インプレス)を発表。