写真/GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

大河ドラマ「光る君へ」で注目を集める平安時代。大河ドラマといえば時代は、戦国、江戸、幕末、テーマも武将や智将の「合戦」が中心でした。

なぜ今、平安なのか。

「光る君へ」の時代考証を務める倉本一宏氏は「平安時代はもっと注目されてほしいし、されていい時代。人間の本質を知ることができます」と語ります。

その倉本氏は5月21日に、平安京に生きた面白い人々の実像を綴った『平安貴族列伝』を上梓。

日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」から、藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、その生涯を紹介しています。

今回はその著者の倉本一宏氏に、改めて平安時代とはどんな時代だったのか?お伺いしました。

「一夫多妻制」という誤解を生んでしまった理由

——今回のお話を聞き、平安貴族のコネを作るにあたり、出世には婚姻、誰と結婚するか、その関係性みたいなのは非常に人生を左右するんだろうと思いました。

 これは本当に何度も主張しているのに、いまだに誤解している人が多いんですが、平安時代は一夫一妻制です。古文の時間などに、当時は一夫多妻制だったとか平気で言う人がいるんですが、これはもうはっきりしています。

 しかも婿取り婚といいまして、男性が女性の家に婿に入る。例えば藤原道長が源雅信の家に婿に入ります。妻は源倫子で、夫は藤原道長、生まれた子供は藤原彰子、藤原頼通で、その子供たちは妻の家が育ててくれて、夫の食事や装束、牛車は妻の家が用意してくる。完璧に婿入りですが、姓は変えません。

 一夫多妻制という誤解を生んでしまったのは、おそらく文学作品を読んだ人が、女性のところに男が通って来る、また帰っていくというのを見て、当時の結婚は通い婚なんだな、あるいは他にも女がいるみたいだから一夫多妻制なんだと単純に思ってしまったのを、全員がそうだと思ってしまったからでしょう。これはからくりがわかっていまして、文学を書く女性はほとんどすべて妻ではなく妾(しょう)だからです。

 妻というのは要するに男を婿にとった人です。それだけが妻なんです。例えば『源氏物語』の中でも、光源氏の妻というのは二人しかいない。一人は葵の上、もうひとりは女三ノ宮で、紫の上は妻でも妾でもない、同居人です。だから紫式部は賢いので、紫の上に子供を作らせなかった。子供がいると物語がちょっと面倒なことになると。

 和泉式部にしても蜻蛉日記の作者にしても、相手の男には嫡妻がいて、自分のところへ通って来て…とありますが、そのほうが面白いわけです。同居する夫との物語を書いても面白くないでしょう。現代の夫婦と同じなわけです。身分も安定していますからね。妾の方はものすごく不安定…あの人は長いこと来てくれないとか、来ないから捨てられたのかしらとか、でも読む人にはそれが楽しいんです。物語はまず女房が読みますが、女房にも嫡妻の人はあまりいないので、同じ身分の同じ立場の人の「恋バナ」がうけたのでしょう。