琉球問題の発生

 この時期、薩摩藩が実効支配する琉球も世界情勢の影響を受けざるを得なかった。天保14年(1843)、イギリス艦サマラン号が琉球の拒絶にもかかわらず、八重山諸島に上陸して測量を実行した。また、同15年(1844)、フランス艦アルクメーヌ号が那覇に来航し、通商・布教を要求した。琉球は拒否したものの、フランスは神父フォルカードと通訳を強引に残留させた。

テオドール=オギュスタン・フォルカード

 弘化3年(1846)、那覇に来航したイギリス船はイギリ皇帝の命令として、宣教師のベッテルハイムとその家族を無理やり居住させた。これ以降、毎年のようにイギリス・フランス船が琉球へ来航し、通商を要求し続けた。

バーナード・ジャン・ベッテルハイム

 この事件を重く受け止めた薩摩藩・斉興は、これを契機に長崎のオランダ商館へ積極的に情報を提供したり、また情報を入手したりという、独自の対外政略を展開したのだ。

斉興の琉球問題への対応

 天保15年、薩摩藩はアルクメーヌ号事件について、幕府に事件の詳細を報告した。調所広郷を責任者とし、幕府の指示に従い琉球に警衛兵を派遣した。翌16年には、幕府に無断で警衛兵の数を減らし、その事実を秘匿した。

 弘化3年、イギリス・フランス船が来航したため、今回も斉興は幕府にそのことを報告し、その指示に従って警衛兵を琉球へ派遣した。しかし、調所は斉興の了解の下、またもや警衛兵の数を水増して報告した。その際、斉興は警衛には限界があるとして、フランスの要求通り、通商開始を一部認めることを幕府に建言したのだ。

 その建言に接した老中阿部正弘は、当時アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルへの対応で忙殺されていた。そのため、琉球についての対応は薩摩藩に委ね、一部通商を黙認する決定すらしていた。その後、警衛兵の水増し工作が表面化したため、加えて、キリスト教の布教に否定的な琉球側の強い反対も相まって、フランスとの通商は結局のところ実現しなかった。

ジェームズ・ビッドル

 斉興は警衛兵の水増しを容認するなど、琉球問題には消極的であり、この後に登場する斉彬に比べると、対外認識はやや甘かったように見える。しかし、当時の斉興の主たる政治課題は、財政の再建であった。調所の改革が成功を収めつつあるこの段階で、先が読みにくい外交課題に必要以上の財政的手当を施すことは、事実上不可能であったのだ。むしろ、斉興は穏便な方法を選択したとも言えよう。