そしてアラブの盟主であるエジプト(アラブ連盟の本部はカイロにあり、ナセル時代(大統領在位1956~70年)以来、エジプトはアラブ民族主義の象徴的存在だった)に頼り、中東産油国との関係改善を図ろうとした。

 エジプト政府の方も、1972年にソ連顧問団を追放し、親米路線へと大きく舵を切ったものの、「インフィターハ」(門戸開放政策)で貧富の差の拡大、インフレ昂進、対外債務増大に苦しんでいた。

エジプトの対日窓口を牛耳ったハーテム氏

 こうした苦境の中、新たな資金源として期待したのが日本だった。そして対日窓口となり、一手に日本関係を牛耳ったのがハーテム氏である。

 前述の和田力駐エジプト大使の公電には「ハーテム副首相は10数年前から日本に対しては多大の親近感をいだいており(現に日埃(筆者注・埃=エジプト)友好協会会長を務めている)、日本とエジプトとの友好関係の促進を念願としており、個人的にもこの日本との密接なる関係を政治的資産として生かしてゆきたいと考えて居り、いわばその政治生活を一貫して「日本にかけ」て来た人物であり」と記されている。

 和田大使から外務大臣宛の別の公電(1974年1月29日付)では、和田大使と面談したハーテム氏が「三木副総理の御尽力により借款金額が1億ドルに達したことは感謝にたえない。日本政府、特に三木総理には自分からの深甚なる謝意をご伝達いただきたい。早速大統領(筆者注・サダト)に報告するが、大統領も非常に喜ばれることは疑いなく、自分としてもこれで大統領に対しても顔が立つ」と述べたことが記されている。

 前述のハーテム氏の伝記には、自分の政治的業績として、第4次中東戦争以降、スエズ運河再開、オペラハウス建設、小児科病院建設、製鉄会社建設の4件のプロジェクトを中曽根氏に依頼し、日本から20年間にわたって4億ドルの借款を引き出すことに成功したこと、7回訪日し、天皇陛下から勲章をもらったことなどが書かれている。

ハーテム氏の伝記の筆者イブラヒム・アブドル・アジーズ氏(左)と筆者

 さらに1989年2月1日付の読売新聞では、ハーテム氏自身が1974年に天皇陛下に拝謁した際のエピソードとして次のような秘話を披露している。

「オイルショック当時、当時の三木副首相がカイロの私の家にやってきて、アラブ産油国による対日石油禁輸に伴なう日本の深刻な窮状について話した。そこで私は24時間の猶予を求め、その間サウジアラビアのファイサル国王(故人)に電話、日本は友好国だから、ブラックリストから外してほしいと訴えた。国王はエジプトのいうことならと理解してくれて、輸出を再開するよう早速、命令を出すと約束してくれた。陛下は三木さんと私のこのやりとりを十分知っておられたようで、開口一番、『国民に代わってお礼申し上げたい』とおっしゃった」

 要するにハーテム氏は、日本とエジプトの友好関係、経済関係の発展に深く関わり続けて来た大物で、日本の総理大臣とも親交を持つどころか、天皇陛下への謁見を許され、さらには感謝の言葉をいただくほどの人物ということだ。