パリで生まれ、ロンドンで育ち、東京大学に入るもヒップホップに傾倒して学校に行かなくなった。その後、ラッパーとしてデビューするも脳梗塞に倒れ、合併症で左目を失明した。一時は医師から余命5年と宣告されるも、オリジナルデザインの眼帯を付け、言論、芸能、音楽活動といった分野でむしろ精力的に活動を続けている。
なぜこんなにタフで多忙で多才なのか。『イル・コミュニケーション 余命5年のラッパーが病気を哲学する』(ライフサイエンス出版)を上梓したラッパーでMCのダースレイダー氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)
──パリ生まれ、ロンドン育ちということですが、なぜ幼い頃パリやロンドンに住むことになったのですか?
ダースレイダー氏(以下、ダースレイダー):父が朝日新聞の記者(ニュースステーションの解説員なども務めた和田俊)で、赴任先がヨーロッパだったのです。パリやロンドンの支局に赴任しました。母は画家でしたが、学生時代にパリに留学していた経験もあり、土地にはゆかりがありました。
僕と弟が生まれる前、両親はカンボジアにいたそうですから、ちょっと時期がずれていたら、カンボジア生まれになっていたと思います。日本に移り住んだのは、小学校4年生の2学期、10歳の時でした。それからはずっと日本に住んでいます。
海外の教育しか受けていないと、日本では帰国した時に一つ下の学年に入れられます。だから、赴任先で皆さん子どもを日本人学校に入れる。結果として、あまり現地の言葉が身につかない。とてもバカバカしいことだと思います。
僕は一つ下の学年からやり直すのは嫌だったので、地元の公立学校は避け、明星学園という私立の学校に入りました。電車通学だったので、僕にはあまり地元感覚というものがありません。
ただ、担任だった内藤哲彦先生との出会いがあったので、結果的にはこの学校に入って本当によかったと思っています。内藤先生はランニングシャツで、草履に腹巻、さらにサングラスにチョビ髭というかなり印象的ないで立ちで、「ガッパ」というあだ名が付いていました。必ず芥川龍之介の小説『河童』を生徒に読ませるからです。
ガッパ先生は教科書に沿った教え方をしません。漢字を学ぶにしても「自分で本を読んで『読んでみたい』『書いてみたい』と思った漢字を選んで覚えろ」と言う。
6年生になると「もう問題を作るのが面倒なので、君たちが問題を作りなさい」と言って、生徒が作った問題を入れる箱をクラスに設置しました。その中からいい問題を選んで授業に使うのです。